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三番目のお嫁さん

人と会話をすることが苦手な私は、遠く離れた石川県で米農家をしていた祖父母とどう話していいかが分からなかった。
年に1回ほど、その祖父母の家に遊びに行くのは、幼い私にとって一番の楽しみだったが、たまに顔を合わせるとどう接していいか悩んで毎回モジモジしていた。

祖母よりだいぶん年上の祖父は穏やかで口数が少なかった。
彼らが作った農作物が調理されたものが並ぶ食卓は質素だけれど滋味深いもので、いつも祖父の「たんと食べてくさいのう」の一声がかかってから、食事を頂いていた。
祖父の元気だった頃の私の記憶は、この穏やかな掛け声と、田んぼで作業にしている姿、自転車で畦道を走っている姿以外、ほとんど残っていない。

祖母は、たまに来る私たち家族にすごく優しく、可愛らしくて、食べ物を大事にする働き者だった。
私は祖母が大好きだったのだが、頻繁に会っているもう一人の祖母と比べると優しすぎて、その優しさは偽りのものではないかと疑ったこともあった。
そして、近所へ私たち家族が来たことを報告するため、菓子折りを持って挨拶に回る祖母の姿は、田舎で上手く渡る手段すら全く知らず、学校ではいい子ぶってると妬まれることもあった小学生の私には、あざといように映ることもあった。

私は、祖母に対してふとそんなことを思うこともあったものの、祖父母の家に滞在する短い期間中に、自然を駆け回り、お腹が空いたらご飯を食べに家に戻り、都会ではできないことを目一杯楽しんでいた。
そして、帰る日が訪れた朝には「帰りたくない」と泣いた。

そんな幸せな瞬間も、私が小学生のときにあっけなく終わりを告げた。
畦道を自転車で走っていた祖父が、水路に落ち、入院して寝たきりになったのだ。
脳内出血だった。

それからは、毎年祖父の見舞いに行くことがその田舎へゆく目的になった。
祖父は、私たち家族に会うたびに、話すことはできないけれど、唇を震わせて泣いて、何か記憶を断片を探るかのように、一人一人をじっくりと見つめていた。

祖父が亡くなったのは、それから十年後のことだった。
皆ほっとしたのか悲しい葬式ではなかった。
そして、その時の私は不謹慎にも箸が転んでもおかしい年頃で、お坊さんの間延びしたお経に笑い転げたいのを必死でこらえていた。

祖母の優しさの理由を知ったのは、葬式を終えて祖父母宅へ戻った夜のことだ。
妻としての最後の務めを終えた祖母は、そこへお嫁に来た理由について語った。
一番最初の祖父のお嫁さんは、不器量で姑さんから離縁を言い渡され、二番目のお嫁さんは子宝に恵まれなかったからお姑さんに離縁を言い渡され、最後にここへ来たのが祖母だったそうだ。
祖母は、祖父にかばわれることも全くなく、お姑さんのいじめにひたすら耐えてきたという。
だから、自分が姑になったときは、されたことを返すのではなくて、お嫁さんに優しくしようと決めたんだ、と言った。
祖母が三番目のお嫁さんであることは、今日の今日まで子どもに語らず、ずっと秘密にしてきたと、祖母はいたずらっ子の目で語っていたので、私は「ああ、これは、祖母から祖父への愛情の裏返しの最後の仕返しなんだ」と思った。
そして、祖母が人に与える優しさは、祖母自身が義理の家族から受けたかった優しさなんだと気付いたとき、なんだかとても切なくなった。

祖母はそれから、独りになった家に住み続けた。米作りも辞めた。
私たち家族は年に一回、祖母に会いにゆき、私の父母は毎週日曜日に電話をかけて祖母の様子を尋ねていた。

そんなある日、就職して滋賀県で独り暮らしをしていた私のところに母から電話があった。
祖母に電話をかけたが、出ないという。
比叡颪ひえおろしという比叡山からものすごく冷たい風が吹き降りていた、真冬の日曜日のことだった。

私も電話をかけてみたが、やはり繋がらない。でも、その繋がらない電話のすぐ横で、冷たくなっているけれどもまだ息のある祖母が倒れている気がして私は電話をかけ続けた。どうか、生きて、と願いをかけながら。

案の定、祖母は骨折して低体温症になって倒れていたものの、一命はとりとめた。
父から連絡を受けた、近くに住む叔母が見に行ってくれたのだ。
毎週連絡していた父母の習慣が、祖母の命を救った。

それから入院した祖母は、下半身不随になり、回復したのち、施設に入ることになった。
祖母の見舞いに行った当初は、どうなることかと思ったが、メキメキと元気になり、施設一、元気なおばあちゃんになった。
そして、祖母のお嫁さんそして、人に優しく、気をかけるという想いは、施設の職員の方々へも注がれて、祖母は施設のアイドルになっていた。
優しさには、優しさで必ず返ってくるものだ。

コロナ禍の現在では、祖母に会いに行けてない。
だから、返事は来ないけれど手紙を書く。

繋がらない電話を握りしめていたあの日を思いながら、きっとその向こうで祖母へ生きて欲しいという想いは届いていたのだと信じて。
そして、簡単なことではないけれど、私も常に人に優しくあろうと日々奮闘している。

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