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モモへつながる冒険

私が小学生の頃、一学期の終業式にはそれぞれの学年にあった本の販売が行われていた。
もちろん、購入の可否は自由で、事前に書名とその内容が書かれた紙が配られるのだが、母がいつもその本を選んでくれていた。
ランドセルに入れたお金が、帰りには一冊の本に姿を変えていた。
両親は、ゲーム等は決して買い与えてくれなかったが、本は読める分だけ買ってくれた。母の選んだ本は、どれも面白かった。(小さい頃にゲームをさせてくれなかったことに、今ではものすごく感謝している。ゲームやインターネット等は諸刃の剣だから。)

現在でも、新聞の書評を読んで面白そうな本があったら教えてくれる。私が自分で選んで読む本の面白さの的中率が極めて低いのに、母の的中率は100%にほぼ近い確率だ。

今、母に教えてもらって読んでいる本がトレント・ダルトンの『少年は世界をのみこむ』だ。これが結構な長編で、まだ半分ほどしか読めていないのだが、すごく面白い。

本書は、大半が著者自身の話だそうで、1980年代のブリスベン郊外の犯罪が横行する町に住む新聞記者を目指すことになる少年イーライの成長の物語だ。イーライの家族は、麻薬中毒の母、父代わりには麻薬売人をしている母の恋人、そして、口をきかない兄の三人で、家庭環境も劣悪だ。
この物語では、映画『スターウォーズ』のダークサイドに堕ちたダースベーダーを度々引き合いに出し、悪とは何か善とは何かを問いかける。悪いことをするから悪人、良いことをするから善人とは、簡単に量れない、人は内面にダークサイドとライトサイドがあり、どちらの面を主に表出させるかによって違うのだという。そして大切なのは『どんなときも善良でいることを学ぶこと、どんなときも悪い人間にならないのを学ぶこと』だという。

私が幼少期に一番憧れて、将来なりたい女性であったのが、『天空の城ラピュタ』のドーラだった。
私はドーラの二面性に憧れ、二面性の謎に囚われた時期もあった。
ドーラは海賊としての悪党の面があるにも関わらず、頭がものすごく切れ、統率力があり、人情味に溢れ、おしゃれで、多分母性もある、この不思議は何だろうか。
宮崎駿監督は、職業で人をこうだとは決めつけない描き方をする。どの人にも職業を決定付ける身を投じて来た環境があり、一方の見方をすれば悪であっても、それは必ずしも悪とはいえないと宮崎駿監督の映画でいつも私は学んだ。

イーライは、彼の教育係である元脱獄犯のスリムからの勧めで、刑務所の受刑者に手紙を書いている。その手紙の言葉が、とても良いのだ。

世界中で起きている問題、過去に起きた犯罪は、どれも誰かのお父さんに原因があるんじゃないかって。強盗、レイプ、テロ、アベルを殺したカイン、切り裂きジャック、どれもこれも原因はお父さんにあります。お母さんにもあるかもしれないけれど、世界中のどのろくでなしのお母さんも、お母さんになる前はろくでなしのお父さんの娘だったはずです。(略)どんな物語にもふたつの面があるよね。

また、イーライは、人生の大部分を刑務所で過ごしたスリムから『時間を殺れ。時間に殺られる前に』ということを教わる。スリムは刑務所にいる間、時間を操作できたらしい。スリムはこう語る。

時間と親しい仲になって、好きに操れたんだよ。進みを速くしたり、遅くしたり。時間に速く過ぎてもらいたい日は、自分の脳をだます。考える暇もないほど忙しくして、やりたいことを全部やり遂げるにはとても時間が足りないと自分に思わせる。(略)反対に、ゆっくり楽しみたい時間帯、よく晴れた日中に運動場で過ごしたりするようなときは、時間の進みを遅くすることだってできる。(略)おれたちは五次元の世界に生きてるんだからな。においのするもの、味のするもの、手で触れるもの、聞こえるもの、見えるもの。その五つだ。ものの内側に、またものがある。花のおしべに小さな宇宙がある。層をなしている。

そのスリムの言葉から思い出す、時間といえばのファンタジーがある。
最近の私はやるべきことがいっぱいあり過ぎて時間が足りず、時間に囚われた日々を過ごしている。そして、周囲は嫌なニュースで溢れ返っている。
私の心は、本当は『もうなにも見たくない。なにも聞きたくない』と叫んでいる。

そうしてたどり着くのが、私が小学生の頃に読んだミヒャエル・エンデの『モモ』だ。

話は少し横道に逸れるが、私の好きな画家のひとりが、酒井駒子さんだ。
酒井駒子さんの絵を好きになったのは、『赤い蠟燭と人魚』と、『ある小さなスズメの記録』だった。こんなにも、人の愛と情念のこもった影のある絵を見たのは初めてだった。


今年、雑誌『MOE』の5月号で、酒井駒子さん特集をされていたものを読んだ。
その中に、石井ゆかりさんのエッセーが掲載されていて、そこで、モモが灰色の男たちに追われ、疲れ果て逃げ込んだ先のマイスター・ホラーの待つ〈どこにもない家〉で突っ伏したときに記載されている下記の一文に触れている。
『もうなにも見たくありません。なにも聞きたくありません』
それについて、石井ゆかりさんはこう記す。

それでも、モモは自分の腕のなかの暗闇で、なにか別の夢を見たはずなのだ。酒井さんの絵は、そういう世界を描き出している。私にはそう思える。張り裂けそうな苦悩と疲労、怒りの果てで「もうなにもみたくない」と思ったあと、目を閉じてわずかにやすらいで、そこに拡がっている世界が、酒井さんが描く子どもたちの、うさぎたちの見ている世界ではあるまいか。そこにはいつか来る死がある。時間のない世界がある。

三年ほど前、銀座でMOEの展覧会があり、酒井駒子さんの絵も展示されたので、見に行ったことがある。その時、駒子さんのサイン会があったが、事前予約だけで満員になっていて、サインを頂けなかった。
駒子さんの絵を観た後、サインが欲しかったな、と思いながら会場横のレストランでカレーを頂いていたら、私の横のテーブルにMOEの編集者さんとおぼしき方と座られたのが、駒子さんだった。
駒子さんは、グレーヘアーの小柄な女性であったが、駒子さんが描かれる子どもたちそのものの様な方だった。
駒子さんは、誰も侵すことのできない神殿をお持ちの方のように見え、まるで『なにもみえない、なにもきこえない』ご自分だけの世界に生きておられるようだった。
私は、なんて素敵なんだろうと思った。

そして、声を掛けられずに、私はその場を去った。

それから間もなく、妹が酒井駒子さんのサイン本が京都にあったよと、駒子さんが翻訳し、絵を描かれた、ゾロトウの『ねえさんといもうと』を送ってくれた。
正に、ねえさんといもうとの一冊になった。

ようやく、私の目には酒井駒子さんが、モモのように映っていたことに気付く。

そうだ、今年の夏は、モモに逢いに旅に出ようと思った。

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