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ドアノブのトマト

私が初めて住み慣れた街を出たのは、社会人になったときだった。

私が就職したのは土木業界の会社で、そこで採用されるには全国どこでも転勤できること、が条件になっていた。女性活躍社会といえども、土木業界は狭き門で、やっとのことで就職できたのが、その一社だけだった。

最初の赴任先は、実家から電車と飛行機を乗り継いで半日かかる場所で、山奥の家一軒もない場所に会社の事務所があった。
最初のうちは、仕事も、そこで出会う人も、気候も、その土地も何もかもに慣れることができずとにかく嫌だった。

全く何も馴染めないまま夏が来た。
そんなある日、アパートの2階、私の住む部屋のドアノブに、大きなトマトがゴロゴロと入っているビニール袋がかけられていた。
ごんぎつね(新美南吉の作品)みたいだなと思い、しばらく立ち尽くしていると、階下から声がした。
60代くらいの女性だった。
階段をかけ上がってきたその人は、私に「うちでできたものだから良かったら食べて」といい、私が返事する間もなく、かけ降りていった。
女性は、私のアパートの前の一軒家に入っていった。私は、ずっと私のことを見守ってくれてたんだと、なんだかほっとして嬉しくなった。
それから、週に1回ほど野菜や果物がドアノブにかけられるようになった。

しばらく経った休日、庭いじりをしていた、そのごんぎつねような(借りを作っているのは私の方である)女性にばったり会い、家でお茶をしようと誘ってくれた。
女性はYさんといった。
旦那さんと二人暮らしで、私が住むところに以前私と同じ会社の夫婦が住んでいたという。そして、その人たちがとてもいい人だったから、懐かしくなり私に声をかけたそうだ。
そして、困ったことがあったら連絡して欲しいと、Yさん夫婦は言ってくれた。

それから私が転勤するまで、交流は続いた。

あの時、その地に住むYさんに出会っていなかったら、きっとこの場所が嫌いで終わったと思う。

別れる時は、Yさんはとても寂しがってくれて、「あなたの連絡先とってていい?」と聞かれたので頷くと、「あなたも私の連絡先とってて」と言った。

あれから私は何箇所も点々と渡ったが、ずっと連絡しないまま、Yさんからも連絡のないまま御守りのように電話番号を持っている。
どこに行っても助けてくれる人はいて、どの場所でも良い思い出があり、悪い思い出もある。

本当は、宮崎駿監督の『ハウルの動く城』みたいにダイヤルを回せば好きな場所に行けたらいいな、なんて思うが、それではハウルと同じ、現実逃避としての場所にしかならないと最近感じるようになった。
その場所で向き合わないといけない現実があるんだと思う。

たぶん、私がここにずっと住みたいって、思えるような場所は、仕事を含めて自分がどう生きるかという目的意識をしっかり持ったときに、探し求めた場所がガチッと応えてくれる、そんな出会いがもし来たら、の話になるのかも知れない。

Yさんに電話してみようかな、まだ私のこと覚えているかな、とずっと思いながら、少しずつ時は流れて、また新たな大切な記憶と、大切な場所、大事な人が増えてゆく。

#どこでも住めるとしたら

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