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平沢進『Amputee ガーベラ』の新解釈~浮かび上がる生成変化の物語~

この記事では、平沢進の「Amputee ガーベラ」という楽曲を、いちリスナーが、新しい視点で解釈していきます。色々な用語の説明をしていたら、少々長くなりましたが、読んでいただければ幸いです。

…本当に長くなりました。歌詞の解釈だけ知りたい人は、「物語論」の部分はすっ飛ばしてください。

この記事を読む際の注意

①この考察は、GN(ファンクラブ)に加入していない者が書いた考察です。あまり詰められていない点も多いですが、ご了承下さい。

②このnoteは「解説」ではなく「解釈」で、考察の域を出ません。あくまで個人の解釈として受け取ってください。ただしリアクションは大歓迎でございます。一緒に考察を楽しみましょう。

③今回は「Amputee ガーベラ」を中心的に取り扱います。ネットで従来から言われているような解釈とは異なりますので、他楽曲との関連性が薄く、詰められていない箇所が多いです。ご了承ください。

④著作権の関係から、歌詞は全て「引用」の形態を取らせていただきます。そのため、歌詞全文は検索等を行ってください。


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ちょっと個人的な思いを

平沢進の12枚目のアルバム「現象の花の秘密」
8番目の楽曲「Amputee ガーベラ」

私はこの楽曲に登場する、ある1フレーズの歌詞が忘れられません。
「物語を閉じて 君の日を祝うよ」

新解釈の記事を書くときには、従来から言われている解釈などを一通り見てから、何か新しい視点があるかを考えながら書くように心掛けています。
この曲の考察は「amputee(切断)が何を指すか」に注目が集まり、「物語」に関心が寄せられていない気がします。

なぜ「物語」に目を向けるべきなのか。
これには2つの理由があります。

まず、このアルバムに際して行われたインタラクティブ・ライブ「ノモノスとイミューム」の軸として「物語」があるからです。これは単に「お話」「ストーリー」のような意味ではない、もっと心理学に近い「物語」を指しているように感じられます。

さらに、2021年の新譜「BEACON」に、「物語を閉じる」モチーフが再登場しました。「物語はこれでおしまい」と、アルバム中では2度も言われます。ここに平沢の楽曲を「物語」という視点から解釈する必要性を見いだしました。

どこが新解釈なのか

今回は、『Amputeeガーベラ』を、物語論から解釈していきます。すると、一見すると難解な歌詞に、筋の通ったストーリーを見いだすことができます。また、「Amputee=切断」の意味がすこしだけ分かる気がします。

この記事を書くに当たって、参考にした文献があります。
浅野智彦, 2001, 「自己への物語論的接近 家族療法から社会学へ」勁草書房

この記事では、必ずしも学術的な正しさを重要視しません。引用等のルールは厳守しますが、あくまでも楽曲の考察のために、参考にしたものです。ご理解のほど、よろしくお願いします。

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物語論の視点から① 物語ってなに?

浅野の整理によれば、物語には2つの性質があります。なるべく分かりやすくお伝えするように、頑張ります。

①物語を通して現実が構成される
②物語を通して可能性や矛盾が隠蔽される
(浅野,2001: 63頁)

まず、①についてです。
たとえば私たちが自分について説明するとき、「私は○○な人間です」という風に言いますよね。就職活動で、よく見られる光景です。「私は、逆境で努力することができる人間です」とか言ったりします。これは、自分の過去を振り返ったとき、「逆境に打ち勝った」経験を、自分の中でストーリー化しているからこそ言えることです。部活の試合で逆転した、とか。受験勉強を不利な状況から始めたけれど、努力の末に第一志望に合格した、とか。

私たちは、意識的にも無意識的にも、「物語る」ことを通じて、特定の結末に向かうように出来事を取捨選択しています。ここに、自らの仕事のできなさ、無能さを嘆く人がいると仮定しましょう。彼は「自分は仕事ができない、他の社員と比べても、やることが遅いし、成果を挙げることもできない。部下に頼られた経験もない。」と語ることで、自分を「仕事ができない人」として構成します。彼が自分の仕事を思い返すとき、上司に怒られたり、自分の部下が自分以外の、他の同期を頼るエピソードが、物語として配列されることでしょう。

しかし、本当にそれが全てでしょうか。「自分は仕事ができない」というゴールに向かってエピソードを配置しているだけで、必ずしもこのゴールにはそぐわないエピソードもあるはずです。

これは②にも関係してきます。②について話しましょう。
たとえば彼だって、部下に指示をするときには自分の経験を踏まえて注意点を伝えていたのかもしれません。仕事が遅い分、焦って取り組んでいれば大きな失敗に繋がっていたかもしれないことだってあったのでしょう。彼は自分を「仕事ができない人」と物語ることで、それ以外の可能性や、「仕事ができない」という結末に反する、矛盾するような部分を隠しています。

これは「物語る」うえでは必要なことです。だって、「自分は仕事ができない人」という話のなかに「実は仕事で大きな失敗をしたことがないんです」とか、「部下に指示するときには、なるべく過去の経験を伝えるようにしてる」とかの話が混ざると、聞き手は「?」となるわけです。「仕事できないんじゃないの?」と。聞き手に物語を受け入れてもらうためには、結末と矛盾するようなエピソードは隠蔽しなくてはならないのです。

物語論の視点から② 語り得ないもの


人は、物語ることで現実を作っていく。人に説明する。
そして、語られる物語の結末に矛盾するようなエピソードは、隠蔽される。
この2点を確認しましたね。

さて、世の中には様々な「物語」が流通していますが、その中でもとくに支配的な物語を「ドミナント・ストーリー」と呼びます(ドミナントとは、「支配的」という意味です)。以前、『回路off 回路on』の解釈をしましたが、そのときに登場した「働かざる者、食うべからず」ということわざも、ある種のドミナント・ストーリーかもしれません。

「働かざる者、食うべからず」がドミナント・ストーリーとは、どういうことでしょうか。
みなさんも、何となく、本当に何となく、思うことがあると思います。親のお金で好き勝手している人をみると、「なんだあいつ」となるでしょう。どんなに仕事が辛くても「働かないと、食べていけないじゃん」と言って頑張りますよね。それは、「頑張らない、働いていない奴が食っていけてない」ストーリーや「頑張った奴、すごい仕事をしてる奴が、いい生活をしてる」ストーリーで構成された、「働かざる者、食うべからず」という支配的な物語を語ることで、現実を見ているからでしょう。

ここからが大事なのですが。
そうしたドミナント・ストーリーからズレるものがあります。この記事を読む人ならば、知っていることでしょうが、それこそ平沢進は「働かざる者、食うべからず」のようなストーリーからはズレている人間でしょう。

さっきの、「仕事ができない人」と語っていた彼を思い出してみてください。彼が自分について物語るとき、ドミナント・ストーリーは「仕事ができない自分」についてのストーリーです。しかし、そこからズレるストーリーもあるかもしれません。さっきの「結末と矛盾するエピソード」のようなものです。このような、ドミナント・ストーリーから外れるもの、物語るなかで隠蔽する矛盾を抱えたものを、浅野は「語り得ないもの」といいます。

「語り得ないもの」は、物語をつまずかせるような存在とされています。ちょっと変な表現かもしれませんが、「語り得ないもの」を語ってしまうと、物語が物語として成立しなくなるのです。しかしそこには、さっきの「仕事ができない彼」のように、「実はこういう未来があったんじゃないか」「本当はドミナント・ストーリーのような、仕事のできない人ではなかったんじゃないか」という可能性も含まれています。

ここまでをまとめます。これで、歌詞の解釈に必要な話は整いました。

人は、物語を通して現実を作る。(性質①)
その物語は、特定の「結末」に向けて語られる。
そこで「結末」に矛盾するようなエピソードや、「結末」とは異なる可能性を示すものは、意図的に隠され、排除される。(性質②)
こうした矛盾や可能性を「語り得ないもの」という。

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歌詞の解釈

おまたせしました。歌詞の解釈に入ります。

結論から申しますと、「Amputeeガーベラ」という曲は、私たちが自分についての物語を変化させ、「語り得ないもの」に目を向けていくことを後押しするようなメッセージが込められているのではないかと、解釈します。

この解釈をしやすくするために、歌詞の順番を前後させます。

星を飲むような 巨大な3Dの裏庭
星を生むような 巨大な3Dの裏庭

星を「飲む」、そして星を「生む」という生成変化を表現しています。ここは非常にシンプルな解釈でよいでしょう。

では、「巨大な3Dの裏庭」とは何か。これは、インタラクティブ・ライブ「ノモノスとイミューム」を参照します。

まず、「3D」とは三次元空間を指すわけですが、なぜ「三次元」なのか。
「四次元」は、空間を構成する3つの軸(数学的にいうなら、x,y,z軸)のほかに「時間軸」を足したものとされています。当たり前ですが、三次元では時間軸を設定しません。

「物語」とは、基本的に、ある一定の「時間軸」に沿って構成されます。逆に、時間軸の想定されない物語は存在しません。このことが、先の話に関係します。

ノモノスとイミュームの用語には、以下のようなものがあります。

反射
世界を動かす「物語」のこと。Amputeeはそれを「反射」と呼ぶ。
Source
確率的に全ての可能な「反射」を含んだ空間。

裏庭とは、表にでていない、隠された庭ですよね。この辺までくると、見えてきます。

つまり、「巨大な3Dの裏庭」とは、
①物語の生成変化(「星を飲む/生む」)に関係する
②時間軸のない(=物語に組み込まれていない)
③表立っておらず、隠された空間

これすなわち、「巨大な3Dの裏庭」=「Source」のことでしょう。

物語論と絡めて、さらに解釈します。
Sourceは、確率的に全ての可能な「物語」を含んだ空間です。私たちが何かを物語るときに、もしかしたらあり得たかもしれない結末やストーリーが、Sourceには眠っていることでしょう。Source、巨大な3Dの裏庭とは、「語り得ないもの」=「矛盾や可能性の貯蔵庫」であり、支配的な物語を組み替えるのに必要なものだといえます。だからこそ、「星を飲むような」「星を生むような」という生成変化の歌詞のあとに、続いてくるのです。

次の解釈にいきます。

突飛な声を隠し また中空に夢を見る
異次元に咲かせた 誰にも見えぬ花の

「隠し」「異次元」「見えぬ」と、何か「見えないようにする」ような歌詞が連続で登場します。これこそ、物語の②の性質である、「矛盾や可能性を隠蔽している」ことの示唆と捉えられます。

「突飛な声」「中空に見る夢」「異次元に咲かせた花」は、どれも物語を語る上で、外されてしまった矛盾や可能性のことでしょう。


知られる前の日に 切断の音がして
生き別れたキミの キミたるキミに会わそう

「切断」と聞いて、何を切断するのかを考えます。
当然、物語(もっと言えば、ドミナント・ストーリー=支配的な物語)を「切断」するのでしょう。

「切断」とは「物語をつまずかせるもの」=「語り得ないもの」と解釈します。ここは、今回の解釈でも重要なところですね。物語論にそって考えていくと、さほど違和感なく、このように解釈できる気がします。

「知られる前の日」は、物語によって、物語ることによって現実や自分を構成する前の日、ということでしょう。そのような日に、「切断の音」がするのです。

語り得ないものが、音を立てて、支配的な物語を切り崩していきます。すると、そこには支配的な物語に組み込まれてこなかった、支配的な物語に対する矛盾と、別の可能性が現われてきます。「生き別れたキミ」とは、「別のあり得た可能性」を持つキミであり、それこそが「キミたるキミ」です。


物語を閉じて キミの日を祝うよ
必然の花咲く 誰にも見えるキミの

正直に言って、ここの解釈のために物語論に目をつけた感があります。

そして、物語論を参照し、それを基礎に解釈をくみ上げていくことで、余計に「なぜ、ここで『物語』という言葉をハッキリ使うんだ?」と考えてしまいます。そういう迷いのなかで、一応解釈をします。

ここでの「物語」とは、「これまで支配的であった、または自分がそうだと思い込んでいた物語」のことでしょう。それは「閉じる」=「切断される」=「隠された矛盾や可能性によって組み替えられる」べき物語なのです。

この歌の冒頭で、「見えないようにする」歌詞が続いていましたが、ここでは「誰にも見える」と逆のメッセージとなっています。ここは平沢の長年のメッセージである「全き人格の回復」と捉えてよいでしょう。シンプルな1つのメッセージを、長年、様々な表現をすることができる点は、非常に尊敬します。


全体的なメッセージをまとめる

この歌を通してのメッセージとして解釈したものを、何とか言語化してみます。

「突飛な声」「異次元に咲く花」「誰にも見えぬキミ」のように、
支配的な物語を語るさいに、排除されてしまったものが、
この世には、そしてあなたの中には存在する。
支配的な物語を、「切断=Amputee」する。
支配的な物語が含んでいる矛盾、そして「あり得た可能性」に目を向ける。
支配的な物語を、閉じる。
そのために必要なものは、Source(巨大な3Dの裏庭)にある。
そうすることで、全き人格の回復は達成される。


ガーベラとは?

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あえて、以下の歌詞を解釈しませんでした。

ハイウェイをハイウェイを 埋め尽くすガーベラ
キミの名のキミの名の 消えないガーベラ

ここまでの解釈で、言いたいことは何となく伝わります。

ガーベラを暫定的に、そして安易に解釈します。
ガーベラの花言葉は「希望、愛、前進」というものがあるらしいです。
ガーベラを、「展望のある、前へ進めるための、希望」と暫定的に解釈すると、この歌が、支配的な物語を切断することで得られる希望の歌と解釈できます。


最後に

今回の解釈を通して、感想と、読者のみなさんへの問いかけをしたいと思います。

直近のインタラクティブ・ライブ「ZCON」を見に行きました。
Σ-12が言っていましたね。「常に『それとも』を持ち歩け、大馬鹿者め」
まさに、Amputeeガーベラにも通ずる、一貫したメッセージです。
物語論の視点からは、アルバム「現象の花の秘密」の別の楽曲、とくに「現象の花の秘密」「空転G」あたりにも、新たな解釈を提示出来そうです。

以前書いた、「白虎野」「回路off 回路on」の解釈を読んでくださった方も、結構いらっしゃって驚いています。Twitterでも密かにエゴサして、この記事を「面白い!」と言ってくださる方がいること知り、嬉しく思います。

「歌詞」という文字情報を解釈することは、確かに面白いし、分かりやすいし、ある程度の論理性を求めることができます。しかし、そればかりに囚われてはいけないような気もしています。なぜなら、私が解釈してきたのは平沢進の「音楽」であり、「文学」ではないからです。
もしよろしければ、この記事を読んでくださったみなさんが、この曲をどのように聴いたか、聴こえてきたかをコメントで書いてくださると、私としてもまた理解が深められるように思えます。よろしくお願いします。

解釈記事は今後も、何か自分の中で「新しい解釈」が生み出せそうなら書いていこうと思います。ながーい記事、おつきあいありがとうございました。

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