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三文安の孫と祖母の思い出

祖母の使っていたケータイから、こんなメールが出てきた。

祖母が亡くなって、次の日の遺品整理のおりである。
これは祖母の妹、つまり私の大おばに当たる人から祖母に届いたメッセージだ。誕生日を祝うなんの変哲もないメールだが、私はこれを見て泣いた。
このメッセージが届くまでの祖母の行動がありありと想像できたからだ。
祖母が亡くなり、いまいち実感が持てず泣くことが出来なかった私を泣かせたこのメッセージの詳細を語る前に、まずは私と祖母について話そうと思う。

物心ついた頃から祖母と住んでいた。
あれは4歳ごろの記憶だっただろうか。いつも幼稚園の帰りに歩道橋の下で毎日私を待っているのは母ではなく祖母だった。

母は看護師として働いており、毎日の帰宅は夜の7時か8時ごろだった。
そのため、毎日祖母の作った食事を食べていた。
おばあちゃんあるあるだが、いつもありえないくらい大量の食事が夕飯時にはテーブルに並べられていた。

気づいた頃からそのような生活だったため、帰って母がいないことに寂しいと感じたことは一度もなかった。
そもそも帰宅して母がいる生活を知らないので当たり前である。
が、教師や周りの大人は私がほとんどの時間を祖母と過ごしていることに勝手な妄想を膨らませ、「寂しいやろ」「可哀想に」などと話しかけてきた。
当時小学校低学年だった私は、内心「別に寂しいとかないけどな」と思いつつ、なんとなく「寂しくて可哀想な子」と思われていた方が許される悪事が多くなるような気がしてそういうことにしておいた。
我ながら邪悪でいやな子供である。

「おばあちゃんっ子は三文安い」
という言葉がある。
祖父母に甘やかされて育った子供は根性がなくワガママで人間的な値打ちが他の子供よりも三文下がるという意味だそうだ。
実際、私は随分祖母に甘やかされて育ったので、きっと他の人間より三文安いのだろう。

悪名高き「ワクワクさん」という番組をご存知だろうか。
子供の創造性を育成するという名のものとに、新聞紙や牛乳パックを使用したなんとも捨て難い作品を子供に大量生産させるあの番組である。
ワクワクさんの放送後、高確率で部屋はクレヨン、絵の具、新聞紙、澱粉のりでしっちゃかめっちゃかになる。
普通の親なら発狂ものだろう。
私はワクワクさんを見ては、部屋をめちゃくちゃにするという悪虐非道の毎日を繰り返していたが、怒られるどころか一度も祖母に「片付けなさい」と言われた記憶がないのだ。
それどころか祖母はそんな私にいつも遊び道具として「大根の葉っぱ」をくれた。当時の私はあの芯の硬い大根の葉っぱを細かくハサミで切り刻むのが趣味だった。もちろん一通り遊び終わったあとの部屋の惨状はご想像の通りである。
だがそれも、遊び疲れて一眠りして起きてきた頃にはすっかり元の状態に戻っているのだ。
恥ずかしながら私は大学生になって1人ぐらしを始めるまで、「小さなゴミはいつの間にか風で飛んで室内から放出されるもの」と信じ込んでいた。

夏休み、プールに行ったあと、暑かろうと冷房をギンギンにして待っている祖母。
習い事に行った帰り、必ず自販機でアイスを買ってくれる祖母。
父親に遠足のお菓子を食べられ、当日の朝に「行かない!!」と泣き叫ぶ私に急いでコンビニでハイチューを買ってきた祖母。
いらないと思って捨てた中学の卒業アルバムをこっそり取っておいてくれた祖母。
少し記憶を遡るだけでも私が祖母に甘やかされて育ったエピソードは山ほどある。

社会人になって、地元の大阪から東京に出てきた。
三文安の私は、会社から駅に向かう徒歩10分の間週2、3回のペースで祖母に電話をかけた。
電話での話題は、最近の体調、天気、仕事、実家に居る猫の話などたわいのないものだった。
一度電話で「おばあちゃんっ子は三文安いらしいで」と言ってみたことがある。
祖母は「三文安にしてはようやっとる」と笑っていた。

三文安だったので、会社で色々あり休職した。
祖母はその頃70代後半で、すでに若干のボケが始まっていた。
私が死人のような顔で実家に帰ると、社会のことなどなにもわからない祖母は唐突な孫の帰還に喜んだ。
休職の理由は「会社の都合でちょっと休職することになった」
とかむちゃくちゃなことを言って誤魔化した。
社会経験に乏しく孫に甘い祖母は疑うことはなかった。

休職期間中、昼間はできるだけ近くの公園を散歩することにした。
医者の勧めである。
両親は共働きのため、家には私と祖母だけである。祖母は気が向いたら私の散歩についてきた。

木に抱きつくと生命の息吹を感じられるというインターネットの教えを信じて木に抱きつく孫と
撮影させられる祖母

その後、休職から明け見事社会復帰を果たした。
時を見て転職し、やっと落ち着いてきたと思った矢先に祖母の体調が悪くなった。
年末年始、ゴールデンウィーク、お盆には必ず帰省していたが、その時から
祖母の誕生日である2月22日も毎年有給を取って帰省することにした。

ある年の2月22日、実家近くのレストランで祖母の誕生会を行った。
花束を買う際、3000円の花束にするか5000円の花束にするか悩んだが、まあ大きい分には問題ないだろうと思い後者のものを注文した。するとありえないくらいでかくてバブリーな花束が出来上がった。
大阪と東京では5000円の花束の規模感が全然違うらしい。
サプライズで花束を渡すと、祖母はめちゃくちゃに驚いていた。
パチンコ屋の開店時に店頭に飾られていても違和感のないくらい大きな花束である。
記念写真を正面から写真を撮ると花束がデカすぎて祖母の体がほぼ隠れてしまった。
かつてふくよかだった祖母はデカめの花束に身を隠せるほど痩せ細っていた。

めちゃくちゃでかくて困った

それから、祖母の体調は急激に悪くなっていった。
2月中はまだ歩くことができたが、5月には転倒し骨を折って車椅子生活を余儀なくされた。

私はちょこちょこ東京から大阪に通った。
帰るたびに痩せ細っていく祖母を見ながら、幼い頃から恐れていた時が近づきつつあることを感じていた。

私は三文安の孫なので、大人になっても悪虐の限りを尽くした。
祖母が車椅子で自由に動けなくなったことをいいことに近所の色々なところを連れ回した。
めんどくさがって美容室に行きたがらない祖母を無理やり美容室に連れていったり、居酒屋で蕎麦セットを食べさせたりもした。
祖母が訪問介護の人に自慢できるように猫と母の写真を印刷してアルバムをつくった。その時自分だけ一番盛れている写真を使ってやった。
一緒に散歩した公園や商店街、かつて祖母が私を待っていた歩道橋も見にいった。歩道橋は交通が整備され無くなっていた。

ある日おばからテレビ電話がかかって来た。
そこには病院で車椅子に乗っている祖母の姿があった。
その時私は前日にふざけて髪色をアホみたいな真っ黄色にしており、祖母が私を見て孫を認識できるか不安だった。
が、何年も見た孫の顔は忘れないらしく大層喜んでいた。
このテレビ通話の一週間後に祖母は亡くなることになる。
祖母から私への最後の言葉は
「アンタ、ほんまにかわいいわ〜〜〜!!!」
となった。
アホ丸出しの真っ黄色頭の、明らかに三文安の孫でも、祖母には値打ちものに見えたらしい。

冒頭のメールに戻る。
遺品整理をしていると、ベッドの下から祖母のケータイが出てきた。
最後の方にはボケと病気が進行し、私からの電話に出ることも難しくなっていた。
ケータイも使わなくなり、ベッドの下に落としてしまったのだろう。
祖母のケータイを覗くことに若干の罪悪感はあったが、どうせ私世代ほどプライベートなものは保存していないだろうと思い中を覗いてみた。
いや、これは建前で、実際のところは好奇心だった。
あわよくば祖母が三文安の孫を親戚に自慢しているメールなどを発見して悦にひたりたかったのだ。
自分が邪悪なことは小学校の時から変わらない。
残念ながら私の自尊心を満たすようなメールは送信フォルダに発見することができなかった。
だが、代わりに冒頭のメールを受信フォルダに発見したのだった。

最初はなんの変哲もない返信メールだと思ったが、どうやらこのメールは大おばから一方的に送られたもののようだった。
日付を見てみる。2月23日の朝9時代である。年は私がバブリーな花束を祖母に渡した次の日だった。
ここから祖母の行動を予測してみる。

2月の22日、私と祖母は夕食を共にし、夜10時ごろ帰宅する。
夜遅く、今からの電話もはばかられるため、朝起きて一番に大おばに電話したのだろう。誕生日会の話をするために。
そして大おばから返ってきた返信がこれだったというわけだ。

祖母が亡くなったことに実感が持てず、葬式でもボーーっと過ごしていた。
だが、メールの意味を理解した瞬間、脳裏に嬉しそうに電話をする祖母の姿がよぎり、もう祖母の誕生日を祝うことができないのだと思うと悲しくてやっと涙が出てきた。
同時に、三文安の孫なので怒りも感じた。
なんでこんなに悲しんでるのに祖母はそばにいてくれないのだろう。
三文安の孫はどこまでいってもワガママで邪悪なのだ。

祖母が亡くなってから数年が経つ。
この前実家に帰ったら、祖母の介護ノートが出てきたので読んでみた。
食事のことや体調のことに混じって、その日の様子などが書かれたノートである。
2月23日分には、訪問看護師さんの字で
「お部屋からお花のいい匂いがします」
と書かれていた。

でかい花瓶がなかったので、使ってないゴミ箱に生けられた花と水を飲む猫

夏の暑い日、冷えた室内に入った時、
自販機で売っているアイスを見た時、
ハイチュウ、卒業アルバム、歩道橋…
さまざまなもので祖母の思い出が蘇る。
辛い、悲しいとはもう感じない。だが、会社で褒められた時、面白いものを見た時、何かがうまくいった時、電話で報告する相手がもう居ないと気づいた時だけ、少し寂しい。
だが、寂しいばかりでないこともあるのだ。

逆に仕事でうまくいかなかった時、理不尽な目にあった時は、「三文安にしてはようやっとる」と笑っていた祖母の声が蘇る。
その言葉はいつも私を勇気づける。
私は本当に、三文安にしてはよくやっている。
今思うと、3000円じゃなくて5000円の花束にしたのも
三文安にしては英断だった。

頭の中で祖母が「ようやっとる」と笑うたび、
三文安も悪くないのではと思うのである。


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