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もうその部屋にはいないでほしい

君島さんがテレビ出演したからか私の「君島大空」という名前を含めたX(旧Twitter)の投稿のインプレッション数が急に増えてきて若干恐ろしい。
君島大空という人間がこの世界に急速に広がっていくのを感じる。そして私の何気ない投稿も誰かが拾って読む機会が増えているのかと思うと恐ろしい

…なんてことは今更思わない。

しかし「君島大空」でグーグル検索をすると私のここのnoteの記事も割と上の方に出てくるようになっていてそこだけは若干恐ろしい。
でも君島愛は込められていると思いますよ、
という保証はしておく。

でもあくまでただのファンの独り言の集合体みたいなものである。

君島さんの知名度の上昇と共に彼自身が文章を寄稿する機会が増えてきた。
私は私以外の人間が書く文章がとても好きだ。
他人の頭の中を知りたい。人生を知りたい。私の知らない世界を見てみたい。見ていたい。

私は幼い頃からずっとそんな感じで漫画や本を読んできた。
知らない事を知りたいのだ。私は私の事しかわかりようがない。
それだけではつまらないし、私は希死念慮人間なので他人の人生を知りつづけていたいのだ。自分を生きていく為に他人を知っていく時間を可能な限り増やし続け自分に靄をかけていく。


君島さんは元々文章を書くのが「上手い」というよりも、上手い下手という表現法に囚われていないもっと感覚的なところで文章を紡いでいる印象が強く、独特の彼だけしか紡げないであろう文章に出会う度にいちいち動揺したりいちいち見惚れてしまったりする。

そういえば『シュルレアリスム宣言』に感銘を受けたということを話している動画もあったし、自動記述が彼の基本的な執筆スタイルなのだろうがそれがとても私にとっては心地の良い文章になっているのだろう。

そして私はこのnoteでいつか彼のことを「人と会っている時は笑っているが別れた途端に一人で泣いているような人間をやっているのではないか」と書いたことがあるが、そこまでの書き方はされてはいないが、人といる時の彼がやはり何処か本来の自分とはずれた人間を装ってしまう感なのは今回のエッセイからなんとなく伝わった。というより「やはりそうだよな」と腑に落ちる感しかなかったのだがこの手の内容を書いてきたのにもやはり前回同様驚いた。

こんな風に自分の弱点的な面を晒すような人間を私が知った当時はやっていなかったように思うし寧ろそんな自分は見せたくないというような人間をやっているような印象だったので、何が彼を今のように変えていったのかが個人的にずっと気になっている。

君島さん自身は少しずつ表情も以前よりも世界や自分自身のありのままを許しているような瞳をするようになったなと感じる。前はもっと擦れた瞳だったり投げやりな表情を時折見せていたように思う。
※今もそうなのかもしれないが頻度は減っているような印象がある

でもずっと自分自身でそんな弱弱しく傷つきやすい自分なんて存在しないみたいに騙してきたものを、自ら紐解くように暴いていく今の感じが私はとても好きだし、こっちが今まで一人の部屋に自ら閉じ込めてきた君島大空だよね、とも思う。

そしてこのエッセイが掲載された文芸誌の発売日に私は神戸にいたのでその場では買わずに最後まで立ち読みし、帰宅したら買うことにした。

遠征目的のイベント参戦を夜公演まで無事に完遂し、そういえばイベント内で話題に出ていた明石焼きでも食べるか、と小汚く導線が滅茶苦茶の飲み屋街をスマホのマップを時々確認しながら拙い足取りで探し時々迷ったりしているうちに大体の店が既に閉まっているか混雑で入れない状態になっていた。そしてうろついているうちに時刻を把握しようと腕時計に視線を落としたら既に21時になっていた。

仕方がないので駅前に聳え立つ大きな商業施設内のレストランフロアで食事をする選択をしたが何故かラストオーダーが東京と違ってやたらと早く、21時過ぎにフロアに到着したら大体の店の前にはクローズと書かれ入口が塞がれていた。

なんなんだここはと途端に嘆きたくなった。
ここは観光地じゃないんかい!?
イベントを昼夜連続で観た分の疲労が夕食にありつけない可能性の高さと共にどっと私に降りかかってきた。

どうしようもないのでとにかく空いている店に入ろうとしたが目の前でクローズ表記に変わってしまった。
店内の店員に半分駄目もとで「まだ入れますか?」と尋ね、一人だと言ったらまあ一人分くらいなら調理可能だろうと判断されたのか、カウンター席に通してくれた。
1月の名古屋遠征の宿泊ではコンビニの夕飯だったので神戸ではちゃんと外食にしようと思っていたのだ。

その店では神戸牛の小さなサイズのハンバーグと牛タンのセットが人気らしくおすすめされるがままに無難に注文したが、どうやら自分で鉄板で焼いて食べる形式のお店だったらしい。
私はよくわからないまま席に着いた直後に説明されたとおりに薬味やたれを控え目にかけつつ肉を焼き始めた。

そして何故かその日に読んだ君島さんのエッセイの文章を思い出していた。

神戸牛は柔らかすぎて焼いているうちにハンバーグの形状が無残にゆるやかに崩れていきよくわからないそぼろみたいになってすっかり食べづらさしかない姿になったハンバーグを鉄板の上に大量に置かれていた野菜と共に小皿に雑に載せた。

私は口に少しずつハンバーグを運びながら目からうっすらと涙を流していくという訳の分からない動作で食事をしていた。

「春の部屋って何だ。」

と考え、その部屋はあまり広くなくてあまり明るくもない。
その部屋の中央あたりに膝を抱え真っ白なシャツで背を向けて座っている人が目の前にいた。
「何で君島さん、いつも背を向けているの?」
と私は言いたかったがその背中をただ見ていた。

私はどこからこの部屋の中を見ているのかよくわからなかった。
窓があるが扉が見当たらないのだ。
私は扉の場所を知りたかった。その部屋の扉を見つけても誰も招き入れてはくれなそうだがとにかく私は

「もうその部屋に一人でいないでほしい」

と誰の為に何の為にかもわからずにそれだけを願って身勝手な涙を流していた。
でも食べているのはそぼろみたいになった神戸牛ハンバーグや牛タンだったので非常に滑稽な涙だ。

まさか鉄板で肉を焼きながら一人で泣いている奴がいるなんて誰も想像していないだろうと、少ない客の店内のカウンター席で私は私のまま私の目に自由にさせ続けていた。

そして何故だか全然関係がないのに根拠もないのに私は
部屋に一人でい続けているその背中に手が届くのならば
声が届くのならば伝えたいと思った。


「春じゃなくて夏でもなくて秋でもなくて冬でもない

私が新しい季節を作るから

その部屋から出てきてほしい」



私は彼のただのファン、
そして私に新しい季節なんて作れるのかもわからなかったけれど
なんだか「私がじゃあ新しい季節を作ってしまえばいい!それを彼に差し出してしまえばいい!!」
とかなり意味の分からない熱量の自信なのか希望なのかよくわからない朧げなような一縷の望みの光をいだいていた。

彼が言う「春」はそれぞれのどうしようもないくらい交わることのない「孤独」のことなのかもしれないし、
そうではないのかもしれない。
私は君島大空自身ではないから知りようもない。

でもそんなことは知らなくてもいいのだ。

知らなくても彼は生きて、自分だけの季節の中で曲を作り歌い続けてきた。

でも

もうそろそろそれは

終わりにしてもいいのではないかと私は去年の秋以降からずっと思っていた。

そしてもし

私が彼の望む新しい季節を作れないのだとしても



「私とあなたで何処にも存在しなかった季節を作ればいい」



そんな夢のようなことを考えていた。




彼は彼の季節の中で今後も生き続けるのかもしれない。




でもどうしようもないくらい生きている中で愛していたいと強く望んでいるような歌を作るくらい変わった彼には

彼以外の人と共に新しい季節へ
手を繋いで沈んでいってほしい。



今の彼なら愛しい人へ
手を伸ばして触れることが出来る筈。

出来る筈だと私は信じているのだ。祈るように。




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