浪漫的解釈

社畜の私は「何が言いたいかわからない」「要点は何?」とよく叱られますので、まず趣旨を書くことに。

【本記事の趣旨】
<導入>
  学術的妥当性があると認められる通説に対する、個人に帰属する浪漫的
  解釈が及ぼす課題提起の有用性の考察
<主題>
  ほとばしる浪漫的解釈


では、本編に入ります。

<導入>
 ●ポイント
  Ⅰ.エジプトのミイラ、埋葬の文化と童話における共通点の浪漫的解釈
  Ⅱ.民族学的通説の紹介
  Ⅲ.浪漫的解釈から見た通説の課題

Ⅰ 浪漫的解釈
 古代エジプトにおける特徴的な文化として、ミイラ作成とその埋葬がある。ミイラは死体から脳、内臓等を除去し防腐処理をした後に木棺に入れ様々な副葬品と共に、墓穴や竪穴或いは建造物に埋葬をされる。
 この副葬品の中に「カノプス壺」と呼称される、ミイラの内臓を封入したものがある。信仰上重要とされる内臓が封入され、各臓物に応じて共通的に、装飾された蓋が付随している。
 臓物と蓋の装飾の対応は下記の通り。
  肝臓:人間の姿をした神   イムセティ
  肺 :ヒヒの姿をした神   ハピ
  胃 :山犬の姿をした神   ドゥアムトエフ
  腸 :ハヤブサの姿をした神 ケベフセヌエフ
カノプス壺は上記4つで構成される。これらの4神は、創造神であり太陽神でもあるラーの息子のホルスの4人の子供とされている。
 エジプト神話、信仰は所謂、多神教であり、非常に多く様々な姿と役割を持った神々が存在する。当時のエジプト人にとってそれら神々はとても身近な存在であり、非常に親しまれていたことがうかがえる(山自体それのみが神格化されたメルセゲルなど)。
 医療が発達しておらず死生観も現代と大きく異なる当時において埋葬とそれにまつわる神々については、生活・意識の上で重要な位置づけであったことは想像に難くない。

 この4柱の神、構成をみてみると我々日本人にも非常になじみのある、ある童話の登場人物に類似していることがわかるだろうか。そう、「桃太郎」の
 ヒト:桃太郎  ヒヒ:猿  山犬:犬  ハヤブサ:雉
である。
 桃太郎といえば、「老夫婦」が川から流れてきた桃を拾いその中から「誕生」し、「鬼」を退治する。この童話のテキストに、さらにエジプトの死生観との共通点を見出すことも出来る。
   子供をなすことは困難な老夫婦 : 生より遠い
   川に流れる、流す : 祓いの概念。これも生より遠い
   桃、誕生 : 桃は中国の仙果、不老長寿の象徴。
   鬼  : 陰→イン→オン→オニ 死に近い。これを退治する
     → 死から転じた生、復活が根底のテーマ
 ミイラの埋葬は死後の世界での永遠の命、復活を望んでのものであり、桃太郎の生/復活のテーマと共通点がある。
 以上より、エジプトの信仰と桃太郎における4種の生き物は生/復活のモチーフとして共通点が見いだせ、エジプトと日本の地域は大きく異なれど、人間世界の生活圏に近い3種の動物が「集合的無意識」において共通し、信仰、神話(童話)として発露していると考えうる。

Ⅱ 民族学的通説
 桃太郎のお供の犬、猿、雉(鳥)であるが、学術的には下記が通説として有名である。
  ・鬼を退治する
  →「鬼門」の方角である東北の対局に位置する「裏鬼門」である南西
  →東北を干支に置き換えると「うし、とら」(鬼の角は牛、
   鬼の着物はトラ柄)
  →南西を干支に置き換えると犬、猿、雉(鳥)になる
  →そのため、鬼に対してこの3種の動物がお供になっている
その他にも、干支と陰陽五行になぞらえる説もある。

Ⅲ 浪漫的解釈から見た通説の課題
 南西の方角にあたるのは正確には「ひつじ、さる」であり、鳥は西、犬は西南西である。また、陰陽五行説をとると確かに”金”は猿、鳥、犬になるのだが、その場合の鬼門は”金”の相反関係にある”木”と、相反にない”水”の中間に位置するため、判然とした説明になっていない。
 また、「ひつじ、さる」とした場合に”羊は弱者であるから除かれる”と、かなり論者の恣意的な解釈がなされている。
 上記踏まえ、通説に対して私はこう言いたい。

 ・ふざけるな。ひつじが弱いから除くなど、アホにもほどがある。
 ・そもそも、羊は日本の歴史、桃太郎の物語が成立した室町~江戸初期
  に一般的な動物として存在しない。江戸時代1800年代初期に海外から
  連れてきたが飼育に失敗しとるから、弱いか強いか知らんやろ。
  アホか。

 Ⅰで述べた、集合的無意識における死への忌避、生への渇望の道を歩むパートナーとして身近な動物を選定した、という私の解釈を浪漫的解釈と書いたがと同レベルの説ではないか。
 エジプトの文化が日本に時代を超えて伝わった、ということを浪漫的解釈として標榜したなら、明らかに誤っているだろうが、集合的無意識での共通点にその解釈を求めるのはおかしいかね?
 人間のお友達のアニマルたちを身近に置いておきたい、という人間の心理は間違っているのかね??????!!!!!!!!!!!
 少なくとも羊に謝れ!!!!!!!めえええええええ!!


<主題>
 浪漫的解釈の有用性、通説を穿つ。
 然れども、浪漫的解釈の学術的な証明は日の目を見ることはない。

 でもいいのだ!!
 解釈は外界におけるその是非に関係なく、間違いなく自分のコスモ(小宇宙)に属しており、<我、解釈する故に我あり>
 その浪漫を構成する無限のニューロンの間に存在する結合力の一時的分解によって生じる爆発的エネルギーによって、自身の生命力がほとばしるのだよ!!
 そして一時的分解によって分離したニューロンには、五感を通して再度その浪漫の源泉から自身のコスモにエネルギーをインプットすれば、半永久的に生命力はほとばしり続けるのだ!!
 うおォン、俺はまるで人間火力発電所だ!!
 give me fuel  give me fire give me that which I desire!!!

 ここから私こと人間火力発電所の素敵な燃料と浪漫的解釈を紹介するぜ!

1.ぼくのお日さま  ハンバート・ハンバート

 悲しそうな曲かな?俺の解釈は違うんだ。
 吃音の人の気持ちの歌詞だという人もいて、その解釈もいいぜ。絶対に間違ってない。吃音ではないとは思う俺だけど、だけど、俺のコスモにもしっかりと響くんだ。
 他人に相対した時、出ない言葉、口に出た時に変わってしまう言葉って腐るほどあるんだ。「きらいなときはノーと」言えないんだ。「好きなら好きと」言えないんだ。だって、これは人と向かいあった時の話だろ?電子の上の言葉や紙の上の言葉を言ってるんじゃなく、そこで語れるものは匿名性や間接性から本音が言えるんであっても、世界って結局、人が人に話さないとかわらないんだ。だから、大統領もいちいち演説するんだ。LINEにも通話機能があるんだ。
 頭のイカレた、他人に言いたいことばっかり言えているやつは、こんな曲知らないんだ。聞いてくれるなってんだ。一生見つけるな。その分俺が何回も聞くんだ。
 「家に帰ればロックが」待ってるんだ。コスモにエネルギーをくれるんだ。「ただ笑って」いる力をくれる。「泣きたきゃ泣けばいいさ」って、そこまで広く深く、語りかけてくれるんだ。
 (一人で運転している車の中、三時間この歌をリピートして、泣きまくって、追突しそうになったことがある。)


2.旅路  藤井風

 藤井風の曲って、死生観が、とてつもなくきれいなんだよ。俺にとってはまったく嫌味の無いきれいさなんだ。「帰ろう」って曲もとてつもないんだ。
 ”旅”じゃなくて、”旅路”なんだよ。旅路だから続いているんだ。ずっと、全部。過去からこの先まで。もう会えなくなった人、でも会いたい人。会えない形は色々あるよ。だって、どうしても歩き続けるには、来た道を戻ってられないんだよ。わかるだろ?
 伝えたいんだよ。今俺はこうだよ、あなたのくれた言葉はこうやって俺の中で生きているんだよって。本当は。
 でも無理なんだよ。その無理ってやつも原動力にして生きていこうぜって。否定も無理な肯定もせずに、置いてきてしまったままの自分の後ろの旅路にあるものにすべてに意味があるんだって。気づかされたよ。聞くたびに毎回気づくんだよ。つらいけど、強くなれる気がするんだ。
 同じ失敗をするかもしれない、また人を裏切ったり裏切られたりするかもしれない。でも、すべてを愛していこう、って。今過去がどうであれ愛することができるように、これからも愛してやろうぜ、って。絶対そう言っているんだこの歌は。知らんよ、間違っているかもしれんよ。でも、俺のコスモにはそう刻まれてしまっているし、それでいいんだ。


3.ブリリアント帰り道  きのホ。  作曲作詞 ハンサムケンヤ

 生き辛いよ。もし全部を客観的に見れる存在がいて、絶対的視点で見たら、取るに足らないレベルからそうじゃないレベルってあるよ。それも絶対だと思う。
 だけど、自分が勝手に捉えた周りと、小さな自分の世界の過去との比較でしか、個人の人生観ってなりたたんよ。わからないんよ。隣のやつが考えてる世界って、生き辛さって。そいつにも自分の世界がどんななのかってわかってもらえんよ。イデアの問題なんよ。俺が見ている赤は隣のやつの赤とは一緒じゃないんよ。
 そんな普遍的悲劇も実は悲劇じゃないんだよ。この歌詞に主語が無いってことは、他人だって、自分だって、ってことなんだよ。
 千歩譲ってもらうのも、譲ってもらってるのも、自分。正論を武器にされるのも、武器にするのも、自分。
 厳しいこと言ってると思うのよ。踏みしめて、かみしめて、しっかり名前を付けた人生の場面が、しっかりと綴じられたものとして存在しない人生だったなってわかっているのに、そのまま大人になってしまった自分には、厳しいこと言ってるのよ。超大人なんよ。弱そうに見えてすごく強いこと言ってると思うんよ。
 いつか立派な人間になるんだろうと思っていた小さい頃の自分に、何も言えない自分がいることが浮き彫りになるんよ。
 だけど、優しいんよ。それを集合的無意識(どっかで聞いた言葉だな)ではみんな一緒だぜ、って言ってくれてるんよ。究極に優しい。こんなん思いつかんて。令和の論語やぜ。知らんよ。隣のやつの解釈なんて。わかってもらえんでしょうがないよ、こっちの解釈なんて。
 「ぼくのお日さま」で『頭のイカレた、他人に言いたいことばっかり言えているやつ』って書いたけどさ、許してくれよ。超大人にがんばってなるからさ。きっと俺だって頭イカレてるんだよ。わかるよ。
 だけど、前向きながら進むしかないんだよ。進めばいいんだよ。帰り道っていうけど、実は旅路なんじゃねーの?帰り道って、もう辿れないけど、しっかり自分の糧になっている何かのことじゃねーの?
 これもさ、間違っているかもしれんけど、俺のニューロンはそう構成されたんだよ!!!! 間違っているけど、あっているよな????

<最後>
 趣旨、ポイントから各論に入るのが正解なのかもしれませんが、冒頭にネタバレする映画ってつまらないよね。結局後ろに言いたいことがあってもいいよね。だってビジネスじゃないんだもん。俺のコスモの、俺のニューロンの話だもん。
 追えるところまできのホ。の過去のセトリ見たけど、ブリリアント帰り道ってライブで歌われたことあるのかな?生で聞きたいけど、ライブ向きじゃないのかな。月1もライブいけない事情マンだけど、現地でたまたま演奏されたらうれしいな。眠い。

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