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208.何で喜べるか知らないと喜べないよね


はじめに


「有難いですね」「喜ばせて頂きましょう」みたいな言葉は、天理教を信仰していると、よく耳にする言葉です。

しかし、これを聞いて本当に心から喜べる人は一体どのくらいいるのか分かりません。

ただ「喜びましょう」「有難い」と聞いても、数学の答えだけを聞いて、解き方を聞いていないことと同じなので、聞いてる方はついていけない場合もよくあるような気がします。

増野鼓雪の著書の中に

ところで、「喜ばねばいかんから喜ぼう」というような喜び方では本当ではない。心の中からひとりでにたまらなくなって喜べてくるのでなくてはいかん。無理に喜んだり、こしらえて喜んで通ることは、かえって苦しみである。
出典:増野鼓雪選集第2巻

と書いてありました。

このように「喜びましょう」と言われたから、無理に喜んだり、こしらえて喜ぶことで、かえって苦しんでいる方が、今でも沢山いるのではないかと思います。

このように喜びを強要したり、無理矢理に喜ぶことがないように、「何故喜べるのか」という答への道筋を知る必要があると思いますので、今日は、そのことについて書いていきたいと思います。


理由を知るから喜べる


なぜ喜べるのかを考える際に、まず押さえなくてはいけないことは、

「人間がこの世に誕生した目的」です。

神様は、人間が陽気ぐらしする様子を見て、共に楽しみたいを思われ、人間を創られました。

ですから人間の生きる目的は陽気ぐらしをすることです。

この目的は、天理教信仰者であればほぼ全員が知ってることですが、重要なのは、この目的を日常で常に心に置いておく事だと思います。

神様は、人間に直接言葉で語りかけることが出来ないので、病気や災害等、様々な方法を使って我々人間にメッセージを送っています。

そのメッセージを送る理由は「人間に陽気ぐらしをさせるため」のただ一点です。

つまり、
「いんねんが現れる」のも
「心にほこりが積もる」のも
「身上・事情」
世の中で起こってくること全ては、「陽気ぐらし」という、そのたった一つの目標を実現する為に起こってきています。

自分に降りかかってくること全ては、神様が、
「あなたに陽気ぐらしをさせたい」
という子供を慈しみ育てるような親心のこもったメッセージなんです。

この事は、ついつい忘れがちになってしまうので、「人間がこの世に誕生した目的」を常に頭の片隅置いておく必要があると思います。


偶然は残酷


このように言うと、苦しみの渦中にいる人にとっては、
「こんなに苦しい思いをしているのに、これが自分の為に起こった事だなんて信じられない、神様は残酷過ぎる」
と、このように思われる方もいるかもしれません。

僕は常々言っているのですが、本当に残酷なのは、辛いことや苦しいことに何も意味が無いことだと思います。

「今苦しいのは、今辛いのは、たまたま運が悪かっただけだよ。」
「その苦しみには、何の意味も無いよ」

このように、もし苦しみに何の意味も無いのであれば、気持ちのやりようがどこにもなく、苦しみを他人のせいにしてしまいかねません。

また、自分が悪いんだという思いから、「お詫びしなくては」「さんげしなくては」と、自分を必要以上に責めて、とても喜べない暗い気持ちになる方もあるかもしれません。

どれだけ厳しい出来事であっても、
そこに込められた意味は、自分とその周りの人間に対する「親心」であり、決して自分や他人を責めるための苦しみではないと思います。


二代真柱(敬称略)の言葉にこのような言葉があります。

(前略)
こうして思案するならば、教祖のひながたには悲愴というような種類の流れは何処にも無いと断言出来る。であるから求道に於いても布教に於いても教祖の足跡を踏ませて頂きたいと強調しながら、片面でその御精神であった教理の追求が遅れてしまったならば、ひながたを通っているつもりでいて、それを説明する、伝える時には自分の常識で以て行うという変な結果が起こってきて、歯を食いしばって行こう「泣いて果たすか」といった表現が、教祖の本当の思いとかけ離れてはびこってくるのである。
出典:おふでさき概説


教祖の姿や行動は信仰者のお手本です。

そのことを思うと、
起こってくることを「偶然」だと思うか、神様の「親心」だと思うか、どちらが明るいかと考えれば、神様の「親心」だと思える方が、自分の将来に明るい期待が持てるのではないかと思います。


「何を喜ぶか」について 「従来の解釈」と「これからの解釈」


従来の「喜べる」の使われ方は、
「まだ半分もある」とか
「こっちは駄目でもこっちは良い」といった、
マイナス面を数えるのではなく、残ってるプラス面を数えて喜ぶことに重点が置かれていたと思います。

「こんな辛いことがあったけど、元気な身体があって有難い」
この考え方は、間違ってはいないと思いますが、僕は、もう古い考え方ではないかと思っています。

この場合、苦しいことは苦しいままなので、結局は苦しいことには蓋をして、喜べることを見ようということだと思うのですが、苦しいことに蓋をしても良いのでしょうか?

蓋が出来ないほどの大きな苦しみに直面した時は、一体どうすれば良いのでしょうか?

僕がこの疑問にぶつかったのは、一昨年、母が突然出直した(亡くなった)ことがきっかけです。

「生きてるだけで丸儲け」とか
「死ぬこと以外かすり傷」とか
「もう半分しか無いのではなく、まだ半分ある」とか
これって全部命あっての話しなんですよね。

じゃあ死んだら全て終わりなのか?
もうどうすることも出来ないのか?
遺族は悲しみに暮れるしかないのか?
このような厳しい疑問に晒されるかもしれません。
しかしここで、
天理教の教えである「出直し」が強烈な救いの光として輝きました。

死んでも、また生まれ変わってこの世に生を受けるっていうのは、残された僕達家族にとって大きな希望でした。

更に、母が出直したタイミングで妻が子供を授かり、今も元気にすくすくと育っています。

神様は、どんなことがあっても必ず希望と喜びを用意して下さっているのだと実感した瞬間でした。

そして母親の出直しを通し、家族1人1人に大きな変化があり、確実に成人させて頂いたんです。

こういった経験を経て、僕は
「苦しみ自体に喜びがある」
ということに気付きました。

苦しいことは、神様が僕達人間を陽気ぐらしに導くための親心です。

その事が腑に落ちれば、苦しみは喜びになります。

こうなれば、「まだ半分残っている」と残っているものを数えなくても、
「苦しいこと自体」が喜べるようになると思うのです。

「喜びましょう」という言葉は、楽しい時や嬉しい時に使われる言葉ではありません。

どちらかと言えば、苦しい時や辛い時に使われる言葉だと思います。

この時に使われる「喜びましょう」の意味が
「辛いことだけど、こうやって息ができて、生きていられるのはありがたい」
と残っているものを見て喜ぶのか、

「辛いことだけど、これも神様が陽気ぐらしに導くためにして下さっている御守護なんだ」
と辛いこと自体を喜ぶのか、
どちらが良いのか考えた時、
神様からメッセージを悟るという点から考えると、後者の方が神様の思いに応えられているように思います。

最後にもう一つ二代真柱(敬称略)の言葉を載せます。

(前略)従っておふでさきの中では神・月日・をやと言葉が変わってきているが、変え乍らも説こうなされた思召は一つ、一貫して親と子の絶対性を含んだ関係を持って、親は子供に限りない愛情を抱いている。罰を与えるのではない。恩を持って臨んでいるのだという態度を示されたものである。仮にそれが子供たる人間にとっては厳しいムチのように感じる場合があったとしたら、それはあくまでも愛のムチなのである。
出典:おふでさき概説



おまけタイム


どーも!麻雀王になる男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

先日とあるメンバーで、麻雀大会を二回行いました。

皆離れた場所に住んでいるので、麻雀アプリを使って行ったのですが、二回とも僕が一位を取ることができました。

他の参加者曰く、僕はブログやラジオを更新しているので、その分徳を積んでいるから勝てるそうです。

この理論でいくと、ブログもラジオもどちらも今は週2で更新できていますが、油断すると週1更新になり、その分徳積みが減ってしまうので、次回の麻雀大会で負けないためにも、しっかり更新していきたいと思います。
(動機が不純)


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!