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258. お節会の由来


はじめに 


昔の天理時報を読んでいると、
「お節の話 高井猶吉(昭和6年1月1日号)」
というちょっと面白い記事があったので、一部を抜粋して紹介したいと思います。

※この天理時報の記事は「高井家資料」にも「お節会の話」と題して掲載されていました。高井家資料は現代仮名遣いでしたので、こちらから抜粋させていただきます。

※この記事を書きながら、お節会について調べる事にハマってしまい、気づけば6000字を超える文量になってしまいました。
長過ぎる記事だという事を承知の上で、読んで下さい。


お節会の始まり


初めのうちは三人五人のみが信仰するものばかり。お正月に神様に捧献したのを頂いたが、明治初年頃になって随分沢山になってきたので、御教祖様は帰ってくる信徒及び村方の人達に頒けて食ってもらうことにしたい、そしてそれを
「お節会と称える」
と仰せになったのが初めであって、その当時から四日は鏡開き、五日は村方、六・七・八日は一般信徒の人達に振る舞うことに定められたのであった。

このように、高井氏が冒頭でお節会が始まったきっかをが述べられています。

ここから分かる事は以下の3つです。

・帰ってくる一般信者や村方にお餅を食べてほしいという、教祖の親心がきっかけで始まる。 
・「お節会(おせち)」という名称は、教祖が仰せになった。
・現在の5日〜7日ではなく、5日村方・6日〜8日一般信者と区別されていた。


ここではお節会が始まったのは「明治初年度頃」となっていますが、
天理時報(昭和7年1月8日号)の高井氏の話では、
「御本部でお節会が行われましたのは、明治8、9年頃からであると思います。」
と書かれていました。

一応、天理教辞典も確認したところ、この「みちのとも」に掲載された高井氏のお話が出典で、お節会の始まった年が書かれてます。

ちなみに天理教辞典によると、
「村方(三島町在住者)のお節会」は、
平成元年(1989)に無くなったそうで、結構最近まで残っていたことに驚きました。

村方のお節会が無くなった理由は、
8日が学校の始業式と重なることや、正月に遠方からの別席者・参拝者が増える傾向にある事が理由で、村方と一般のお節会を一本化して日にちを繰り上げたそうです。
(天理時報 平成元年1月15日号参照)

また、昭和8年の村方のお節会には約500名の参加者がいたとのことですが、昭和末期になると、村方のお節会に参加するような三島町の住人は、かなり減っていたのではないかと思います。
(村方のお節会については、もう少し書きたい事があるので最後に書きます)


お節会の内容


一々お膳をこしらえて丁寧にお手盆に牛蒡(ごぼう)、煮豆、数の子を盛り別けて、三種を食膳に乗せて御神酒も飲み次第にして、一人々々にどうかご遠慮なくと給仕をしたもので、

ここを読むと当初はかなり丁寧なもてなしをされていたみたいです。
(今が丁寧じゃないとは言ってません)

更に、この文章に続けて、

平野楢蔵さんらは乞食とも知らないで、まあそう御遠慮なく、神様よりお与え下された物ですもの、御遠慮なさらず等と、丁寧に、袴を着けてこうキチンと正座して奨めておられ、

このように書いてあります。

お屋敷に詰められていた先人が、羽織袴をつけて丁寧にもてなしていた姿を想像すると、
教祖の「帰って来る子供を喜ばせたい」
という思いに応えたいと思う、先人の強い気持ちが伝わってきます。


またお雑煮だけでなく、正月の縁起物として

「牛蒡」:細く長く幸せに。
「煮豆(黒豆?)」:元気に(まめに)働けるように。
「数の子」:子宝と子孫繁栄を祈る。

この3品の肴を振る舞われていたそうです。
(googleで調べてみると、この肴は「三種肴」と呼ばれ、関西風おせち料理の定番になっていました。)

この「三種肴」は、昭和に入ると「牛蒡」と「煮豆」の二種類になっていたそうです。
(更に後年では、「牛蒡」と「昆布」になっていました)

これに加え、
お神酒が飲み次第」=「お神酒が飲み放題」
という事ですから、正月のお屋敷はめでたい雰囲気に宴会騒ぎだったのではないかと想像出来ます。

当時の様子について『「続古老話」田中のぶ談話』には、

物乞いに来る人もたくさんいました。御神酒も飲み放題で、お酒に酔いつぶれた男が、お屋敷のお庭でころんころんと寝ていたことを覚えています。
※明治23、24年頃の話し

このように書かれています。
当時の酔っ払いに対する寛容さが時代を感じさせますね。


お節会の不思議エピソード


明治十三年からは到底そんな小さい場所では収容が仕切れないので、食堂は露店にして、炊事場、餅焼場だけは板で小屋掛をして行うこととなった。その板というのも、その頃のお道はまだまだ小さかったので、板の材木屋(今の滝本)と櫟ノ本板宗という材木屋で借りたものであった。
その板を借りるについて面白いことがあったよ。それは、初めて借りた年などは随分燻っ他ので嫌がったのであったが、それが三年目頃から、例えば当方から十坪と注文して借りて来ると、また後から十坪も余計に持ってきてくれるということになり、今、約束の分は借りてきたから結構だと断ると、「いや、それは渡したことは知っておりますのやが、しかしこれだけ余分に使って頂きたいのです。それは、この節会に使った物が良く売れますのやから、値は御用渡しの分だけで結構過ぎるくらいで、いやどうか一束でもより多く使って頂きましたら」と言って、材木屋から貸してくれたものであったが、その後、前の別席場が出来たので、そこで食膳を今の様子如くにしたものである。それから後は一度参拝者が多かって、餅が不足してついに飯を四石ほど炊して食って頂いたこともあった。

この部分は、お節会の雰囲気が感じられる面白いエピソードです。

明治13年から大人数に対応するため、
炊事場と餅焼場は板を借りて小屋を増設していた
との事ですが、最初は材木屋に嫌がられていたと書かれています。

小屋の中で、4日間に渡って炭火で餅を焼き続けたら、板はススで真っ黒になると容易に想像できるので、
貸した板が真っ黒で返ってきたら、材木屋が嫌がるのも納得です。


ところが三年目には、

「(前略)それは、この節会に使った物が良く売れますのやから、値は御用渡しの分だけで結構過ぎるくらいで(後略)」

と言われていますから、おそらく初年から返却された板が良く売れたのではないかと思われます。


一年目で半信半疑だったのが、
二年目には確信に変わり、
三年目には一束でも多く使って頂きたいとなる。


こんな心境の変化があったのではないでしょうか。


他にも、
「お節会で使用した板を売ってくれ」
とわざわざ指定してくる人もいたかもしれません。

神様の御用(炊事場、餅焼場)に使われたものも
「神様のお下がり」
だと考えれば、
「この節会に使った物が良く売れますのやから」
言われるのも腑に落ちます。


「前の別席場」と「今の別席場」


その後、前の別席場が出来たので、そこで食膳を今の様子如くにしたものである。


「前の別席場」というからには、「今の別席場(昭和6年)」と違うという事だと思い調べてみました。

最初の別席場は、明治31年7月23日のおさしづ
「別席のための建物を建築したい旨の伺い」
から始まり、明治33年秋に完成したそうです。

明治33年以前の別席場については「別席について 中山さとゑ」によると、個人の自宅で行われていたり、誰彼の家が元別席場だったという断片的な情報しかなく、詳しく調べることが出来なかったと書かれています。

という事は暫定ではありますが、明治33年秋に完成した「最初の別席場」が高井氏の言う「前の別席場」だと考えてよいと思います。


最初の別席場が建てられた場所を「おやしき変遷史図 植田英蔵」で確認してみると、現在の北大路沿い付近に別席場があったことがわかります。

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次に昭和6年頃の別席場ですが、「おやしき変遷史図」に昭和6年頃の図は無かったものの、昭和29年におやさとやかたが別席場となっていますので、「いろは教室(旧別席場)」が「今の別席場(昭和6年)」ではないかと予想してます。

天理時報(昭和8年1月12日号)にも、

お神酒場に至るや静粛に脱帽して、素焼きの土器にお神酒を頂き、東講堂東側から食堂に向かう、食堂には東から西へ一直線に建ち並んだ六棟十二室が開放して充てられ

このように書いてあるので、おそらくそれで正しいと思います。



お餅が足りず、おにぎりを振る舞う


それから後は一度参拝者が多かって、餅が不足してついに飯を煮出して握り飯を四石ほど炊して食って頂いたこともあった。

なんとお餅が足りなくて、おにぎりを振る舞った年があったようです。

しかし、
「握り飯を四石ほど炊して」
と書かれても、「四石」の量がぱっと想像がつかないと思います。

ということで、
「米四石ってどのくらいの量なの?」
という皆さんの疑問に応えるべく、米四石でおにぎりが一体何個作れるかを計算してみたいと思います。

米一石は約150kgになるそうなので、
米四石は約600kgになります。
(googl調べ)

次に計算しなくてはいけないのは、米を炊いた後の重さです。米を炊いてご飯にすると、
2.1〜2.3倍程の重さになります。
(googl調べ)
今回は、
「こんな大量のおにぎりを作ってたのすげー」
と思うことが目的なので、2.3倍で計算したいと思います。

続いておにぎり1つの重さですが、当時握られたおにぎりの大きさは全くわかりませんので、コンビニのおにぎり(約100g)を基準に計算したいと思います。

【計算式】
米の総量   :米四石=600kg
炊いた後の重量:600kg×2.3=1,380kg
おにぎりの重量:0.1kg
おにぎりの総量:1,380kg÷0.1kg=13,800個


コンビニおにぎりに換算して、約13,800個のおにぎりが振る舞われていたとは凄いです。

しかもこれは、お餅が足りなくなって追加した量なので、かなり大勢の信者さんがお節会に帰ってきていたことが分かります。


参考までに、天理時報(昭和7年1月8日号)の、
「50有余年の節会史を辿りて 三つの記録を見る」
という記事の中に、明治43年のお節会参加人数が
「13,409人」
だったと載っていました。

明治時代に1万人を超えているのはかなり凄いことだと思います。

明治43年の日本の人口は約4,910万人(第71回 日本統計年鑑参照)なので、現在の人口比で考えると約3万人がお節会に参加したことになります。

一派独立してから2年しか経っていないうえに、現在のように交通網も宿泊施設も発達していなかった事を考えると、この人数はとてつもなく凄い数です。


本席様にお叱りを受けたエピソード


それはよほど年を経てからである。確かに何年とは十分記憶を喚び返さないが、本席様の在世当時であったか、余り沢山の鏡餅が上がったので、どうしても処分をつけられないから、一層のこと信徒へは直轄教会へひとたび下げてから一々生餅で分配してもらうことにしたらどんなものだろうか。そうすると汁も煮くことは要らないし、餅を焼くこともいらないのだものと、本席様に願ってみたのであった。ところが神様からお叱りを受けて、従来通りにしたらよいというお言葉によって、またまた元々通りにすることにして現在に至ったのである。


「本席様に願ってみた」という事なので、神様にお叱りを受けた内容がおさしづにあるのでは無いかと調べてみました。


一応高井氏の記憶の内容と少し違うのですが、「もしかしたら可能性があるかも」と候補になるおさしづが二つ見つかりました。


※僕にはおさしづを読みこなすだけの力は無いので、今回は「割書き」とそのおさしづに関する個人的な予想を述べるだけになります。おさしづ本文は載せません。


候補1:「明治25年1月26日」のおさしづ
「節会は従来通り執行せねばならぬものにや、又今年鏡餅少し改めても宜しきや願」

【候補になった理由と個人的な予想】
・割書きでは詳しい内容が分からないが、経緯次第では可能性がある。
・「よほど年を経てから」とあるので、明治25年は少し時期的に早い気もする。

候補2:「明治33年2月3日」のおさしづ
毎年五日の日に村内の節会致せし処、本年より廃する事に一同談示の上教長へ運ばして貰いましたが、教長は、これは教祖存命の時より致し来たり故、神のおさしづの上定めるが宜し、と仰られるに付、如何して宜しきや願

【候補になった理由と個人的な予想】
・「村方のお節会」を廃止する話なので内容は少し違うが、
「ところが神様からお叱りを受けて、従来通りにしたらよいというお言葉によってまたまた元々通りにすることにして現在に至ったのである。」
高井氏の話すこの部分とは矛盾しないので候補に上げた。
・候補に上げるならば「鏡餅のお供えが多すぎて振る舞い切れない」という話とは結びつかないのがネックになる。

以上2つを挙げましたが、正直一致率が微妙なのでなんとも言えません。

なので、この話は頭の片隅にでも置いておき、もし何か新たな発見があれば追記しようと思います。


まとめ


ということで今回は、高井氏のお話しと天理時報を元に「お節会の由来」について書きました。

横道に逸れまくった記事になりましたが、お節会に関する雑学として楽しんでもらえたらと思います。

最後に本文に書き切れなかった、お節会に関する雑学を挙げたいと思います。

・おさしづを読むと、少なくとも本席様御在世の明治40年までは、陰暦の1月5〜8日にお節会を行なっていたと思われます。
ではいつまで陰暦だったのかというと、明治43年の春季大祭(1月26日)から陽暦で月次祭をつとめる事になったので、おそらくそれに合わせてお節会も陽暦で行うようになったのでは無いかと予想してます。

・当初、一般のお節会は立食でしたが、大正9年より座食になりました。

【村方のお節会について】
村方のお節会は、平成元年に一般のお節会と一本化されるまで続いてきました。
ということは、現在60代以上の本部在籍の先生なら、村方のお節会がどんな様子だったのかを知っているのではないかと思い尋ねてみました。

聞いた内容を箇条書きしたいと思います。

・昆布と牛蒡の肴、お神酒、お雑煮を頂いていた。
・酔っぱらっている人は多数いた。
・村方のお節会が無くなると共に、肴も無くなった。
・肴が無くなった理由は、お下がりの肴を食べずに破棄する者がいたためだとか。
・やかたの八町四方内(三島町)に住む人が減っていたため、村方のお節会を一般のお節会と統合したのではないか。(おそらくそうかもという予想)
・会場は第二食堂

他にも、お節会に関する情報があればぜひ教えて下さい。(追記します)



おまけタイム


どーも!もうすぐ修養科に入る男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今回の記事を書くのに調査も含めて、三週間も時間がかかってしまいました。
(書きたい事はめちゃくちゃ溜まってます)

今回のように最近一つの記事に書ける時間が、長くなっているため更新頻度が下がっていますが、修養科に入るまでは、頑張って書き続けるつもりですので、気長にお付き合いください。
(入ってからは、どうしようか考えます)


さて、noteの更新が一ヶ月も空いたので、おまけタイムに書く内容も溜まっているだろうと思うかもしれません。


否!!


一ヶ月も書かないと、どんな内容を書けば良いか忘れてしまいます。


なので今回は、以前作って美味しかったクリームチーズボールの画像でも貼ろうかと思います。

画像2


業務スーパーの1.3kgのクリームチーズを買って作りました。


美味でした。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!