233.原典を裏返して読む


はじめに


「天理教のソクラテス」とも呼ばれていた西山輝夫氏の著書「見て共に楽しむ-教理随想集-」に
「原典を裏返して読む」
ということについて書いてあるものがありました。

「裏返して読む」とはどういう事かというと、
「何が書いてあるか」
ということを表だとすれば、
「何が書かれていないか」
という観点から読み直すのが裏から読むことになります。

これにはどういうメリットが有るかというと、西山氏は、
「信仰に対する倦怠期のようなものを克服するのに良い」
と述べてました。

そして続けて

これは正しい読み方とはいえないでしょうが、そうしますと、今までうっかり見過ごしてたことが見えてきたりして、改めて原典にはっとするようなおどろきを感じるのです。

このように述べています。

僕自身、原典を裏返して読むということは結構やってまして、
「なんで今まで気づかなかったんだろう」
と言えるような、新しい気付きを得ることができるのでオススメです。

ということで、西山氏が原典を裏返して読む例を挙げているので、それを紹介したいと思います。


四下り目 十ドこのたびむねのうち すみきりましたがありがたい


みかぐらうた 四下り目
十ドこのたびむねのうち すみきりましたがありがたい

このお歌を表から読むと
「胸の内澄み切ったのが有難い」
と神様が言われています。

これを裏返して読むと
「所得が倍増したのが有難いとか、病気が治ったのが有難い」
とは書いていないということになります。

ここから西山氏は何を思ったかと言うと、

そこで私は一体何をもって有難いとしているかと反省します。たまにスコッチが飲めるようになったのが有難いとか、子供たちが元気なのが有難い思っていることは確かですが、どうしても心澄み切ったのが有難いとは実感していない自分を見出します。ここに原典の世界と私の住む世界と私の住む世界の間に絶望的な距離を感じるのです。

どうでしょう、ゾクッとこないですか?

西山氏の例え以外にも
「ご飯を美味しく食べられることが有難い」とか
「健康でいられることが有難い」
と思える話しは良く聞きますが、この様々な有難いの元である
「心が澄み切ること自体」
に有り難さを意識したことがありませんでした。

更にここで西山氏は

ここに原典の世界と私の住む世界の間に絶望的な距離を感じるのです。

と述べています。

「絶望的な距離」
そもそも距離なんて意識していなかった僕は、頭を270°捻られたような衝撃を受けました。

「見える世界と見えない世界」
「物の世界と心の世界」
「人間の価値観と神様の価値観」

ここに「絶望的な距離」があり、人間がどれだけ「ありがたい」と思っていても、ほとんどの場合それは目に見える世界の話しで、心の澄み切ったこと自体を喜んでいるわけではないということです。

ですから神様が「むねのうち すみきりましたがありがたい」と言っておられるのに、信仰者ですら、ほぼそのことを意識出来ていないということになります。

これが西山氏の言う神様と人間の
「絶望的な距離」
であり
「絶望的な現実」
です

しかし僕は、これは衝撃的な事実であると同時に、将来への明るい希望でもあると思います。

なぜなら現状人間は、心が持つポテンシャルを全く発揮出来ていません。
しかしそれは、まだまだ伸びしろが有ることの裏返しでもあるからです。

「絶望的な距離の大きさ」=「人間の伸びしろ」

こう考えると、人間はまだまだ成長していく、もっともっと素晴らしい姿になっていくんだと思えて、明るい気持ちになってきます。


十下り目 四ッよくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや


西山氏は、神様が「胸の内澄み切ったのが有難い」と言われるので、

神様がそう言われる以上、心澄み切ることがこの世でもっとも有難いことではければならない、それは目に見える御守護のようなケチなものではなく、もっと大きなものであるはずだという見当がつきます。そういう目で読み直しますと
「よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや」
というお歌に到達します。心澄み切れば極楽の境地が見えてくると言われるのです。そうなれば月給が上がったのが有難いどころの話しではありません。

このように述べています。

そして現代社会は、欲を追求した結果、極楽から遠ざかっているのではないかと述べ。続けて、

この混乱した世の中を立て直すには、このお歌に従う他はない、原典は現代を救う重要な指針をちゃんと用意して下さっているのだ、ということが分かります。

この西山氏の言葉にも、かなり力を感じます。

「よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや」
このお歌を裏から読むと、
「心が澄み切らなくては極楽は見えてこない」
ということだと思います。

心が澄み切ることは、この世が極楽になるための絶対条件であり、だからこそ
「このお歌に従う他はない」
このように西山氏は言い切っている訳です。

また、人間は心だけが自分のものであり、運命は自分の心一つで決まってきます。
ですから、心を変えることが運命を変えることになるのですが、実際はどのように心を変えれば良いのでしょうか。

形を変えればいいのか?(心の角をとって丸くする等)
大きさを変えればいいのか?(心を広くする等)

どうすれば良いのか具体的に一歩踏み込んで説かれているのがこの「十下り目四ッ」のお歌で、このお歌から心を変えるとは

汚れを取る(心を澄み切らせる)

ということが見えてきます。

考えてみると、澄み切った状態とは汚れが全く無い状態なので、この実現は中々難しいかもしれません。

しかし、運命を変えるには心の汚れを取るしかありません

ですから僕達は今、
「心を澄み切った状態を目指す道中」
という現在進行形の世界に生きているんだと、認識しておく事が、運命が変わる大きな希望になるんじゃないかと思ったりしてます。


おわりに


このように、原典を裏側から読むと新たな視点が生まれてきます。

しかし、
「これは正しい読み方とはいえないでしょうが」
と西山氏が述べているように、裏側を読むことは、1歩間違えれば神様の思惑から外れる恐れもあります。

ですから、あくまで思案の一助であり、
「私はこう思う」
という一個人の意見に留めておく姿勢は忘れてはいけないと思います。

あと最近の記事で、僕が逸話の裏側を読んで書いた記事を1つ紹介したいと思います。

おまけタイムの後にリンクを貼るので、興味のある方はこちらも読んでみて下さい。


おまけタイム


どーも!シン・エヴァンゲリオンが脳内を侵食している男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

先日、嫁の大いなる慈悲心により、とっくの昔に諦めてた
「シン・エヴァンゲリオン」
を観に行く事ができました。

めちゃくちゃ感動しました。

なんでここで泣くのか分からない所で泣きました。

色んな感想や考察は、至る所でされているので、ここでは僕が感じた事を一点だけ書きたいと思います。

感じた事を述べる上で必要な前提条件が一つあります。
それは
エヴァンゲリオン=庵野秀明
だという事です。

エヴァンゲリオンは庵野秀明そのものであり、自分の内面を全て曝け出しで作られた作品です。
こんな作品を作ってたら鬱になるのは当たり前だと思いました。
命と魂を削りながら作られた。
そのぐらい凄い作品です。

そしてここからが本題です。
庵野秀明はエヴァンゲリヲンをテレビアニメ版、旧劇場版、新劇場版を通して、何度も自分を破壊し、生まれ変わってきたんだと思いました。

ピラミッドの大きさは最初に作った1段目の規模で決まります。
完成したピラミッドをより大きくしようと思ったら、そこに継ぎ足すことはできず、もう1度1から作り直すしかありません。

それと同じで、テレビアニメ版で完成した(自分の)物語を壊し、同じエヴァンゲリオンを旧劇場版として完成させそれをまた壊し、そしてまた新劇場版として完成させる。

3度目のエヴァ誕生でようやく、庵野秀明自身の物語も一区切りついたのだと感じました。

オススメの鑑賞コンディションの整え方は、序・破・Qを見直すのよりも、
「プロフェッショナル仕事の流儀の庵野秀明スペシャル」
これを観てから映画館に行く事をオススメします。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


逸話の裏を読んでいる記事はこちらになります↓


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