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261.嘘をついてもいい


はじめに


一般的には
「嘘つきは泥棒の始まり」
天理教的には
「うそとついしょうこれきらい」
と言われるように、
「嘘≒悪」
と認識されがちですが、
実際問題、嘘を付かずして人間関係は円滑に進みません。

真心込めて作ってくれたご飯が口に合わなくても
「美味しい」
と言って喜ぶのが人情で、正直に
「まずい」
と言っては空気が悪くなるだけでなく、大げんかに発展してしまう可能性もあります。

そう考えると
嘘を全て悪とするのは乱暴すぎる解釈
ということになりそうです。


神様が嫌いな「うそ」は、
人間の考える「嘘」と、
少し意味合いが違うような気がしてきますね。


今日はそんな「うそ」についてのお話です。



誠とは?


「うそ」について考える際、何か出発点になるものがあれば考えやすいので、その出発点になる教えとして、
「誠」
について少し説明したいと思います。


まことゝいふは、くちと、心と、手と、この三つが、そろふて、しんのまことゝいふ

出典:改訂正文遺韻


「改訂正文遺韻」には、
「口(言葉)・心・手(行動)」
この三つを揃えることが誠だと書かれています。


これに関しては、特に疑問を持つ事もなく、素直に飲み込めると思いますが、先日友人から、この「誠」に関する面白い考察を聞きました。

少し横道に逸れますが、簡単に説明したいと思います。


三つを揃える≠三つを良くする


友人の話の要約

「口(言葉)と心と手(行動)の三つを揃えることが誠」
と聞いた人は

「良い言葉」
「良い心」

「良い行動」

といったように、言葉・心・行動を良くしようとしてしまうけど、神様は
「三つを良くしなさい」とは仰ってない。
「三つを揃えるように」と仰せになっている。

だから、
「普通の言葉」
「普段の心」
「普通の行動」
こんな風に、無理に良い言葉を使ったり、良い行動をしなくても、
普段の心に言葉と行動を合わせればいい。

確かに、心が伴っていないのに
無理に「良い言葉」を使い「良い行動」をした場合でも、表面上はうまくいくかもしれない。

でも心は成長しない。

心が成長しなくては、自分をとりまく状況は変わらない。

多くの人はこの状態に陥っている。

一瞬「誠」になれば良いのではない。
「日々」が大事。

言葉と行動のレベルを下げれば、傷つくこともあるだろうし、辛い目にも合うかもしれない。

しかし、
痛みを感じるから心が成長するし、それに伴い言葉も行動も良くなっていく。

もちろんケースバイケースで、口・心・手がどれも元々悪い人は「良い行動」や「良い言葉」から入る必要があるパターン等もある。


簡単に書くとこんな感じになります。


「うそ」とは何か


ここで冒頭の

「神様の仰る『うそ』は何なのか?」

という問題に立ち返ると、

「言葉・心・行動」
この三つがバラバラで揃っていない状態

つまり、
「誠」ではない状態が
「うそ」と「ついしょう」
なのではないでしょうか。


逆に言えば、
「言葉・心・行動」が揃っていれば、
「事実に反する事(嘘)」を言っても、
それは神様の仰る「うそ」にはりません。


冒頭挙げた料理を作って貰った例で言えば、
事実として、口に合わない料理だったとしても、
「嬉しいと思う心」
「気持ちを伝える言葉」
「気持ちを表す態度(行動)」

これらが一致していれば、それは「誠」になるので、たとえ事実に反する事(美味しい)を言っても問題ありません。


そう考えると、神様が仰る
「うそ・ついしょう」
とは、
「事実に反する言葉」
ではなく、
「心に反する言葉(行動)」
だと考えられます。

「内心馬鹿にしながら媚びを売る」
なんかは典型で、心と言葉が全く揃っていません。

こう書くと
「人を騙す場合、心も言葉も騙す方向で一致してるじゃないか」
と言われそうな気もしますが、この場合はそもそも「ほこりの心使い」に引っかかりますので論外です。


信仰者の大きな問題


更に、友人が「誠」ではない例として上げていた

心が伴っていないのに無理に
「良い言葉」を使い
「良い行動」をした場合

この状態も、神様から見たら「うそ」になるかもしれません。


「うそ」と言えば、
「人を貶めるもの」
というイメージを持ちますが、
「心に反する言葉(行動)」
という定義から見れば、例え良い言葉(行動)だったとしても

「無理をして出した言葉(行動)」は、
神様から見れば「うそ」になります。


一般的に清廉潔白を求められる信仰者は、これが「うそ」と気づかず、
・教会長だから
・教会の奥さんだから
・後継者だから
・教会の子供だから
「〇〇だから」という呪縛に囚われ、「うそ」を重ねている人が多いのではないかと思います。


しかし、それは呪縛である限り「うそ」です。


神様の嫌いな「うそ」なんです。


この「うそ」を認める事は傷つくことかもしれません。


理想の自分を崩す事は辛いことかしれません。


でもそれは「うそ」で塗り固められた虚構の人生です。


弱い自分を認め、


弱い自分を許す、


素の自分という地点に立つことで、


自分が神様から守られていると本当に気づき、


本当の感謝が生まれてくるんだと思います。


まとめ


「事実に反する事」であっても、
「誠」であれば、
「うそ・ついしょう」には当てはまらない。

僕はこのスタンスを採用していますので、僕に対して無闇矢鱈に
「はい、それはうそー」
と言ってくるのは止めて下さい。


ほんとにやめて下さい。


おまけタイム


どーも!妻より寒がりな男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今日6月2日は、母の3回目の命日です。

親が出直す時の後悔の定番といえば、
「もっと親孝行しておけば良かった」
だと思いますが、僕の場合は
「もっと甘えておけば良かった」
という後悔でした。

純粋に母との思い出が少ないんですよね。

5人兄弟の長男(ほぼ年子)で、高校入学から現在まで天理に住んでいるので、母と2人で会話した記憶はほぼありません。

部活の試合の応援にはよく来てくれていましたが、その感想を聞いた記憶はなく、ほぼ僕が喋っていたような気がします。

そんな僕のメモリ量では虚しくなってしまう母の思い出ですが、人付き合いが上手く、沢山友達がいました。

釣りスタで知り合ったゲームの友達と、オフ会をするほどフットワークが軽かったのを知った時は、お通夜なのに笑ってしまいました。

今回この記事のサムネイルにした画像も、そんな母の友人から送られてきたお花です。

父がLINEで「今年も花が届きました‼️」

と送ってきた画像を勝手に使いました。
(noteの仕様で写真の切り取られ方が残念です)

母が出直してからの3年間は、人生半分くらいの密度があるんじゃないかと思う濃さの3年間でしたので、母の事を思い出す頻度も減ってきています。

でもやっぱり命日ぐらいは、しっかり母の事を思い出したかったので、たわいのない思い出を書かせてもらいました。

来年も(noteが続いていれば)また書きたいと思います。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!




サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!