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263.「ひながたを辿る」の認識をアップデートする


はじめに


「ひながたを辿る」とは、
おやさまの行い(教え)を手本として実践する事。
と広く理解されていると思いますが、これに関しては度々議論が起こります。

俗に言う、
「現代において、おやさまと同じ苦労をするのは無理問題」
のことです。

代表的なのは、
・おやさまの様に貧のどん底を通るのは難しい
これがよく言われますが、真似が難しいものはこれ以外にも

・警察に何度も捕まる
・赤衣を着る
・75日の断食 等々

以上に加え、時代背景や生活様式も考えれば、真似出来ないものにきりがありません。

「おやさまのひながたを辿るんだ」
と言って赤衣を着たり、警察に捕まろうとすることは、直感的に間違いだと誰でも理解できます。

この点だけ見ても「ひながたを辿る」とは、
おやさまの行いを
「そっくりそのまま真似をするわけでは無い」
ということがよく分かるのではないでしょうか。

また、
こうした行動を手本とする事に対し、
「おやさまのひながたを辿るとは、行動を真似することではない。おやさまの心を真似することなんだ」
こういった意見もあります。

例えば、貧に落ち切るについては、
「貧のどん底でも明るく通られた心を真似するんだ。」
という解釈です。

これは確かにそうなのですが、50年のひながたを見た時に、心だけに注目して行動を無視してしまうのは、不完全な気がしてすっきりした答えとは思えません。

このように考え出すと、
天理教を信仰する者であれば至る所で聞く
「おやさまのひながたを辿りましょう」
という言葉が、急に曖昧になってくる気がします。

松本滋氏が

何事につけ、殆どすべての人が、分かりきった当たり前のこととしていることの中に、案外わかっていないことがしばしばあるものである。「ひながた」についても同じことではないだろうか。「ひながた/\」と、口ではよく言われているが、今日果たしてどの位多くの道の者が、教祖の思いに本当に近づくような、「ひながた」の通り方をしているであろうか。

天理教学研究25  現今の時代のひながたの道 松本滋

このように述べられているのも頷けます。


では、「ひながたを辿る」って一体なんなんでしょう?

僕は、従来の一般的な理解である
「おやさまの行いを手本にして真似をする」
という解釈から、もう一歩進んだ考え方があるんじゃないかと思い、考え続け、一つの答えを思い付くに至りました。

今回のnoteはそんな、「ひながたを辿る」についての内容になります。


ひながた全然身近じゃない問題について


「ひながた辿る」について考える際に、まず触れておかなくてはいけない問題があります。

それは、
「ひながた全然身近じゃない問題」
についてです。

・ひながたを身近に感じよう
・ひながたは誰しもが真似できる万人の手本である

このように言われていながら、現実は真逆の扱いをしている場合が少なくありません。

その一例を挙げると、

「教祖のひながたを万分の一でも歩ませていただきたい」

こう言った言葉を講話などで時々見かけます。

言葉の真意としては、
「教祖の通られた道はとても人間には全て通る事ができない。だから、ほんの少しだけでも同じ道を歩ませていただきたい。」
このような感じでしょうか。

これは本当にその通りなんですが、この表現は謙虚さを多分に含みつつもひながたを
「身近」
ではなく
「崇める(おやさまスゴすぎ)」

の方に比重がかなり寄っていると思います。

しかもこのような言葉をよく聞くのは、凄い実績を持った信仰者の講話です。

そんな凄い人が講話で
「万分の一でも歩ませていただきたい」
と話されるわけですから、それを聞いた一般ピーポーはその信仰者を
「凄い人だ」
と思うことはあっても、
「ひながたは身近にある」
とは思えません。

とはいえ、
「教祖のひながたを万分の一でも辿りたい」
という視点を否定するわけではありません。

しかし、実はそれは、
信仰強者の視点ではないでしょうか。

おやさまの偉大さを感じ、実践しているからこそ言える、信仰的に成熟してる人の言葉です。

そのため、天理教をゆるく信仰している多くの人達にとっては、ひながたがどこか遠い世界のように感じてしまいます。

ですから、
「ひながたを崇める視点」だけでは、本当の意味でこの道が広がっていく事が無いように思いました。

ようは、
「見る角度」
が問題なわけです。

「崇める視点」はどうしても「身近さ」とは逆方向とへ進んでしまいます。

かと言って、おやさまのひながた辿る事を身近にするため、ひながたを辿る事が
「お手軽に」
「誰でも簡単に」

としてしまうと、
おやさまのひながたが急にチープになってしまいます。

従来のひながたに対する解釈はこの「身近さ」という視点について、あまり言及されてきませんでした。
(※従来の解釈は、このnoteの最後にいくつか載せています。)

今回述べる「ひながたを辿る」の解釈には、
「崇める」でもなく、
「お手軽」でもない、
「身近さ」という視点。
ここが、重要なポイントになってきます。


ひながたを辿るとは?


ひながたを辿るって何なのか?

いきなりですが、早速結論から述べたいと思います。


それは、

「どうすればおやさまに喜んで貰えるだろう?」

この問いを行動の出発点に据えることです。



「えっ!?そんなこと!?」
と思った方もいるかもしれません。

でも僕は、
「ひながたを辿る」とは、
「どうすればおやさまに喜んで貰えるだろう?」
と考え、行動することではないかと思うのです。

問題は、これの何が従来の「ひながたを辿る観」と違うのかということです。

この
「どうすればおやさまに喜んで貰えるだろう?」
と考え行動することは、従来のひながたを辿る観である
「おやさまの行いを手本として実践する事」
とは似て非なるものになります。


そこに心はあるのか


まず一つ目の特長ですが、これが一つ目にして最も重要な特長になります。
それは、
「主体性の有無」
です。

例えば、
恋人、家族、友人に対して、何か相手の喜ぶ事をしてあげたいと思った時、
「どうしたら喜んで貰えるかな?」
と考えると思います。

自分が「主体的」に「心を使い」相手の事を想って考えるわけです。

そこに他人の意思は介在しません。

逆に、そういった場面で、
「誰かの真似をすればいい」
と考えるところには自分の主体性(心)が無いのです。

練習しなくては成長しないように、
体を使わなくては衰えていくように、
人間の心も使わなくてはどんどん貧しくなっていきます。

こう考えれば、
主体性(自分の心)を持った行動の重要性がよく分かるかと思います。

これが、
「どうすればおやさまに喜んで貰えるだろう?」
と考える事の、一つ目の特徴です。


時代背景を越える


二つ目の特長は、
「時代背景に捉われない」
です。

おやさまの行いを手本として考えた場合、時代背景や生活様式の違いから、どうしても現代では該当するものが無い場合もあります。

しかし、おやさまの行いを直接手本にする事は難し場合にも、
「おやさまにどうすれば喜んで貰えるだろう」
と考える事はできます。

つまり、シチュエーションを選ばないため、どんな時でも、一人一人が
「僕が辿るひながたの道」
を歩んでいく事ができるのです。

そして、
「シチュエーションを選ばない」
という事は、能動的な場面よりも受動的な場面で大きな力を発揮します。


「やってくるもの」に意識を向ける


従来のようにひながたを辿ると考えた時、多くの人は
「何かやらなくてはいけない」
と思うのではないでしょうか。
(「貧に落ち切らなくてはいけない」とか…)

しかし、
「おやさまにどうしたら喜んでもらえるか?」
と考えひながたを辿ることは、能動的に動く場面だけではなく、
「やってくるもの(受動的な場面)」
に対してでも出来ます。

むしろ機会としては、「やってくるもの」の方が圧倒的に多いかもしれません。


家庭や職場など頻繁に関わりあう人間関係の中で、
「どうすればおやさまは喜んで貰えるだろう」
と考え行動するチャンスは、アンテナさえ張っていればこちらが願ってなくてもどんどんやってくるのです。

こうした「やってくるもの」にアンテナを向ける事が、ひながたを辿る事をグッと身近にしてくれると思います。


おやさまの喜ぶこととは?


ここで、
「そもそもおやさまはどんな事に喜ばれるんだろう?」
という事について考えていきたいと思います。

教祖伝や逸話篇等を見ていけば、
・おつとめすること
・人を救けること
・なんでも結構とさせてもらうこと etc

以上のように、こうすればおやさまが喜ばれたという具体的な記録が沢山残っています。

しかし、具体的な例が当てはまらない場合がある事を前章で述べました。

ですから、そういった場合でもひながたを辿るために、こうした具体的な事柄に通底する根本の想い(目的)を理解する必要があります。

「おつとめ」「人だすけ」「なんでも結構」に通底する想いってなんなのでしょうか?

それは、
天理教信仰者であれば誰でも知っている
「人間(子供たち)が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたい」
という親の想いです。

おやさまのひながたは全て、
この親の想いから始まり、
この親の想いに帰結します。

ですから、
「どうすればおやさまに喜んで貰えるだろう?」
という問いを言い換えると
「僕達が陽気ぐらしをするためにはどうすればいいんだろう?」
という問いになると思います。

つまり、
「陽気ぐらしをするためにどうすれば良いか」を、
もう少し「具体的に」「身近に」する問いが、
「どうすればおやさまに喜んで貰えるだろう?」
だと考えるに至りました。


さらにもう一つ、
「ひながたの道を辿る」という事はある意味、
「人間(子供たち)が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたい」
という、
親の心(おやさまの心)に近づいていく営みではないでしょうか?

しかし、いきなり親の心になれと言われてもなれません。

子供が親になるように段階を踏む必要があって、まず
「どうしたら親が喜ぶだろう」
と親の気持ちを考えるのが第一歩になり、

そう考える中に、親が喜ぶのは
「子供たち(私たち)が幸せになる事」
だと気づき、

そして、子供たち(私たち)が幸せになっていく中で自分の喜びも、
「子供たちが幸せになる事」
に限りなく近づいていきます。

このように段階を踏んで親の思いに近づいていった先に、
「陽気ぐらし世界があるんじゃないかな〜」
なんて思いました。

最後に


従来のひながた観では、
「やれば分かる」
「とにかくひながたを辿らせていただこう」
という考え方が主流でした。

「楽しいからやるんじゃない、やるから楽しいんだ」
こんな言葉もあるくらいですから、
「とにかく行動する」というのは、
信仰体験を促すかなり力強い手段だと思います。

しかしそれは信仰の入口であり、その先の道があります。


なぜなら、
人を思いやる気持ち、
「あの人のために何かしたい」と思う心には、
先程あげたような「とにかく行動する」では生まれない、強いエネルギーがあるからです。

それは、人間が助け合い、支え合うために産まれた事を示す
「思いやりエネルギー」
なるものかもしれません。

この「思いやりエネルギー」は、真似では生まれてきません。
人間が唯一自分のものである、主体性を持った「心」から生まれてきます。

そして、
「どうしたらおやさまに喜んで貰えるだろう」
と思う心が、
そのエネルギーを量産する問いになるのではないかと思った次第です。


おまけタイム

どーも!すっかりご無沙汰な男
ほこりまみれの信仰者こーせーです。

随分久しぶりの更新になってしまいました。
この間何をしていたかと言うと、大教会青年として、
剪定をしたり、

マンホールを直したり

ペンキを塗ったり

色んな事をやってました。
本部勤務をしていた時はほぼデスクワークだったので夜中も起きていられましたが、今は日中の疲れで子供と一緒に9時前になる事が半分以上を占めるようになりました。

つまり!
眠気に負けてnoteを更新できなかったという事ですなんです🥺

これからも睡魔には全力で負けていくスタイルを継続していきますので、気長に更新お待ちいただければ嬉しいです。

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!

ほな!





従来の解釈

一応、先行研究で「ひながたを辿る」がどのように解釈されているのか、いくつか上げたいと思います。
※「ひながた」ではなく「ひながたを辿る」といった動詞的な解釈についてになります。

読むのがめんどくさい方は飛ばしてもらっても差し支えありません。


「月日のやしろ」たる親神の道・神一条と、人間世界における現実の生活という二つのことを一つにしてゆくこと、それが「ひながた」であり、その統一を実現して貫いてゆくものが実証の道であったと言うことが出来よう。(中略)
何をなすべきか、そのようなことは分かりきっている。それをなすのが困難であるという点に人間の問題があるのである。その困難をどうして通るか。それはひながたのように通る他はないという意味であろう。

天理教学研究6 「ひながた」の倫理 ー「おふでさき」の前提にあるものー 芹沢茂 

教祖は、在世の、現実のあるがままを味わい、その世間的常識に対して神一条の通り方をしめし、不思議なたすけによって人びとに信仰への目を開かれ、成人を促し、陽気ぐらしの根幹を明示し、さらには、いかなる事情にあっても心におさめられたもとを忘れない通り方を教えきくもの、ひながたをたどるものの立場にたって、その信仰の成人過程に即してしめされた、と理解されるべきであろう。

天理教学研究17 「ひながた」の倫理 澤井勇一

たすけ一条としてのひながたの道は、つとめとさづけの実践であるといわれる。陽気ぐらし世界の実現をわれわれ人間の目的とすると、つとめとさづけ、すなわち教祖ひながたの道は、その目的に至るための道(手段)ということになるであろう。

天理教学研究22 教祖ひながたの道研究序説 笹田勝之

われわれは教祖のように、この世にあって、「元の親」を伝える使命がある。それも言葉(文字・話)だけではどうにもならないように思われる。
「元の親」として、教祖のように生きる事が、今ここでわれわれに要請されている使命なのである。

天理教学研究22 教祖ひながたの道研究序説 笹田勝之

人の親は、教祖がそうであったように、「をや」「元の親」を正しくこの世に映し出すべきなのである。それが「成人」の本来的意味であり、教祖ひながたの道を歩むことはそうした「親」として通ることであろうかと私は考えている。

天理教学研究22 教祖ひながたの道研究序説 笹田勝之


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!