186.甘露台座談会#2 ぢば定めってどんな様子だったの?


はじめに

教祖から直接話しを伺っていた先人の先生方が、かんろだいの事についての座談会が、昭和10年1月5日号に載っていました。

前回の記事はこちら

面白い内容の座談会になっていますので、とりあげさせていただきます。

今回は「ぢば定め」についてです。

尚注意して頂きたいことは、先生方が記憶を頼りに話されているので、年号など記憶に誤りがある可能性があるということです。

メンバー
管長様(中山正善)
山澤為造氏(元治元年より、父良治郎に連れられて参拝していた)
松村吉太郎氏(明治19年に身上を助けられてから本格的に入信)
髙井猶吉氏(明治7、8年頃入信、明治12年に身上を助けられ本格的に入信)
飯降政甚(明治7年、飯降伊蔵の次男として生まれる)
梶本宗太郎(明治13年、父松治郎の長男として出生)
上原義彦(東大教会2代会長)
史料集成部より
桝井孝四郎氏、上田嘉成氏
道友社より
堀越儀郎氏、中山慶一氏、上田理太郎氏、高野友治氏、出沖虎夫氏

ぢば定めの状況

中山
それでは次のぢば定めの史実をお聞かせ下さい。
山澤
ぢば定めをなさったのは明治八年五月二十六日や。
中山
聞かして頂いている所によりますと、教祖はなんでもぢば定め前日、すなわち二十五日から「明日は命日であるから良く掃除をして置く様に」と仰ってちゃんと掃き清めさしておかれたと言う事でありますが。
山澤
そらそうですやろう。
管長様
その当時から二十六日が命日と決められてあったのか。
山澤
それは勤場所の建つ以前からちゃんと決まって居りました。
中山
その日お勤めが終わってからお定めになったのでしょうか、それとも、ぢばを定めてからお勤めにかかられたのでしょうか。
管長様
そんな事は中々はっきりしないだろう。第一今日のお勤めを頭においてその当時のお勤めを考えると言う事は無理だ。
髙井
あの時ほんと足が留まったのは教祖様と、さよみ(仲田儀三郎)さんと、留菊(辻忠作氏息女)さんの三人や。最初に教祖さんがお歩きになって踏み留まられた所にしるしを付けておかれて、さよみさんに歩いてみよと仰った。さよみさんが目隠しをして歩いたら同じ所で足が引っ付いた。辻さんは同じように歩いてみたがどうしてもひっつかん。つまり因縁がなかったんや。そこで留菊さん(三歳)を負うて歩いて見たらひっついた。まともにひっついたのはこの三人だけや。
中山
留菊さんを負うて歩かれたと言うのは辻先生の奥さんと違いますか。
髙井
そうや。つまり子に因縁があったんや。
松村
史実はいくら聞いてもわかっている丈の事しかわからんで。それ以上記録を探すより仕方ない、なんでも明治二十四年に当時本部にいたものが昔のことを考え併せて書いたものが本部にあるはずだが。


中々衝撃的な内容になってます。
特に髙井氏が言われている
「まともにひっついたのはこの三人だけや。」
という御言葉です。

稿本天理教教祖伝と内容が違っていますので比べてみたいと思います。

稿本天理教教祖伝
かくて、明治八年六月、かんろだいのぢば定めが行われた、
教祖は、前日に
「明日は二十六やから、屋敷の内を掃除して置くように」
と、仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除をして置いた。
教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。然る後、こかん、仲田、松尾、辻ます、櫟枝村の與助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かされた處、皆、同じ處へ吸い寄せられるように立ち止った。辻ますは、初めの時は立ち止らなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆と同じ所で自弁に吸い付いて動かなくなった。こうして、明治八年六月二十九日、陰暦の五月二十六日に、かんろだいのぢばが、初めて明らかに示された、時刻は昼頃であった。


髙井氏の「まともにひっついたのはこの三人だけや。」と
「こかん、仲田、松尾、辻ます、櫟枝村の與助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かされた處、皆、同じ處へ吸い寄せられるように立ち止った。」
では明らかに矛盾しています。
これをどのように考えるかが問題になってきます。

そもそも高井氏は、その場に居合わせたのかということがまず問題になってきます。

これについては「高井家資料」を読んでみますと、
高井氏が身上を助けられて本格的に信仰を始めたのは明治12年19歳からですが、これは住み込み青年を始めた時期で、12歳の頃からおぢばへ通い始めていると書いてあります。
(天理教辞典には明治7、8年頃から家族で入信とありましたが、計算すると、明治5年からおぢばに通っていたことになります)

更に「高井家資料」の本文には

そして、ある時、秀司先生が、「猶さん、もうそんな遠い所へ帰らんとき。わしの食べるご飯半分ずつ食べたらええがな」とおっしゃって頂いて、それからおぢばにずっと入り込ませて頂くようになったとのことであります。この時が明治十二年であります。したがってぢば定めの時の様子等、かなり克明に覚えておられましたが、おそらく現場に居合わせたのだと思われます。

確かに座談会でも、まるで見てきたかのような口調ですから、その場に居合わせた確率は高い気がします。


ここで、更に理解を深めていくために、ぢば定めに関する他の書物を取りあげていきたいと思います。

辻忠作手記本 教祖様御伝について 中山正善※1
二十五年程前に、教祖様御子息小かん様と、おふたり、神様のおさしづにて、かんろふだいの場所をおさだめなされまして他の信心のもの目をくくりてある木、その所にゆきあたれば、足は一歩もはこべぬ所、これがかんろふだいのしんとなります。
辻忠作手記本 教祖様御伝について 稿本※1
二十年前、明治八年、教祖様、こかん様、弐人 御指図にて、かんろふだいの場所御ためしになりました。そこをあるいて、向へも横へも一足ゆけぬ所へしるしをつけ、他のもの知らずにみな、信心のもの目をくくりて歩き、中田、松尾と一枝与助、辻ます(忠作の妻)子をおふてあるけば、みなおなじ所で立どまりました。それかんろふだいの場所となりました。
御教祖御伝附天理教会起源沿革※1
明治三十三、四年諸井政一稿

……明治八年、御教祖七十八歳の御時晩春の頃、御教祖、小寒女と共に、御神意に基き、閉目して御屋敷の地内を歩行なし玉ひ、今日甘露台の場所に至り玉へば、御足体、我に地に吸して、他に転する能はず、即ち此地を以て甘露台の場所と定め玉へり。
 因に言う。その当時、中田儀三郎、市枝村与助、松尾市兵衛、及、辻氏の妻、留菊女を背負閉目此地に至れば、自ら他に転足する事態は砂利しとぞ。

※1は続ひとことはなし その二に引用されていたものです。

これらの文献が稿本天理教教祖伝の参考になったと考えられます。

高井氏は字が書けませんでしたので、直接執筆されたものは残っていません。

また、その「稿本教祖伝」は初代真柱執筆の「教祖様御伝」を基に作られています。
しかし、ぢば定の年号は「教祖様御伝」ではなく、おふでさきを参考にしているとのことです。

そのあたりの文献の優先順位等の判断で、上の資料が採用されたのではないかと予想していますが、僕の持っている資料では、これ以上のことは分かりませんでしたので、どなたか知っている方がおられましたら教えて下さい。

#3に続く


おまけタイム

どーも!教理もですが歴史研究も面白いと思う男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

天理教史の勉強をする上で最大の敵は何か御存知でしょうか。

その答えは、「毎日更新」です。

僕の場合最近はピンポイントで天理教史を調べているわけですが、毎日更新という性質上、一日しか調べる時間がありません。

そうなるとどうしても、調査が半端な状態で世に出すことになってしまうので、時間が無いとい点で、かなりの天敵だと思っています。

いっそのこと毎日更新を止めれば、もっと調べられる気もしますが、毎日締め切りに追われるという状態だからこそ、追い込まれて毎日勉強するので、毎日更新をやめても「時間が無い」と嘆いていると思います。

諸刃の剣ってやつです。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!