159.逸話篇7「真心の御供え」に関する一考察

はじめに

ふと天理教教祖伝逸話篇7「真心の御供え」に関して思ったことがあったので、書かせて頂きます。


余り物の立ち位置について


まずは「真心の御供え」を知らない方のために、全文を掲載します。

「真心の御供」
 中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。
 すると、教祖は、いつになく、
「ああ、そうかえ。」
と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。

 それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。
 例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、
「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」
と、非常に御満足の体であらせられた。
 これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
 教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
 そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、
「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」
と、仰せられた。

このお話に関して以前ある方から、
「立派な重箱にお餅を入れてきた信者も、教祖に喜んでいただきたいという気持ちがあったと思うのに、それを全く喜ばれないのは、少し納得ができない」
というような話を聞きました。

その時の僕の返事は
「教祖は粗末なお餅も、重箱のお餅も喜ばれました」
とした場合、心が大切だということが、伝わりにくいお話になってしまうからではないか。といった返事をさせて頂きました。

しかし、本日ふと、教祖が喜ばれなかった理由が
「重箱に入れられたお餅は『余り物』だったからではないか」
と仮説を思いつきました。

ということで早速考えていきたいと思います。


まず、高野友治氏著の「教祖余話」にこんなお話がありました。

(前略)そのときに、味はどうだろうと思って味見したら、教祖は、おあがりにならなかったそうです。それで、やすにおっしゃったそうです。
「神さまに、ものを差しあげるのに、人聞が先に味見したらあかんで」
「このことはこの先ずっとあることであるから、皆に伝えてほしい。神さまに、ものをあげるときには、味見したあとであげたらあかん、神さまにあげたあとでそれをいただくのはいいけれど、人聞が先に味見したらあかん」
とおっしゃったそうです。その他、お魚 (川魚) なんか誰かが捕ってきて、料理して差しあげると、
「結構やなあ」
とおよろこびになって、ちょっとおあがりになって、あとはお下げになった。信者たちが何か差しあげると、これも結構と一口だけおあがりになって、
「あとは、神さまのおさがりとして、病人にあげてくださいや」 とおっしゃったということです。

ここから分かることは、

1、神様の前に人間が口を付けてはいけない
2、神様のおさがりを頂くことで、健康になれる

この2点です、このことからも、「真心の御供え」に出てくる

「これも親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」

という気持ちが大切なことが分かります。


さて、そういえば余り物を教祖が食べられないお話が逸話篇にもありましたので、それもチェックしていきましょう。

逸話篇89「食べ残しの甘酒」
教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでもして置こうものなら、いくら教祖がお召し上がろうとなされても、どうしても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。
 明治十四年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。この甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであったが、その日、当時未だ五才のたまへが、それを見て、付添いの村田イヱに、「あの甘酒を買うて、お祖母さんに上げよう。」と、言ったので、イヱは、早速、それを買い求めて、教祖におすすめした。
教祖は、孫娘のやさしい心をお喜びになって、甘酒の茶碗をお取り上げになった。
 ところが、教祖が、茶碗を口の方へ持って行かれると、教祖のお手は、そのまま茶碗と共に上の方へ差し上げられて、どうしても、お飲みになる事は出来なかった。
 イヱは、それを見て、「いと、これは、教祖にお上げしてはいけません。」と言って、茶碗をお返し願った。
 考えてみると、その甘酒は、あちこちで商売して、お屋敷の前へ来た時は、食べ残し同然であったのである。


オーマイガー…

なんと教祖は、例え余り物(食べ残し)であったとしても、その優しい心を喜ばれています。

この事実により、僕が立てた仮説
逸話篇7「真心の御供え」にて、教祖が喜ばれなかった理由が「重箱に入れられたお餅は『余り物』だったからではないか」
という説は否定されました。

しかし、それと同時に、ことの発端となった
「立派な重箱にお餅を入れてきた信者も、教祖に喜んでいただきたいという気持ちがあったと思うのに、それを全く喜ばれないのは、少し納得ができない」
という考えに関しては、

御供えが出来る出来ないは別として、
「例え『余り物』であっても、その心を受け取って教祖はお喜びになる。」
ということが判明したので、「立派な重箱にお餅を入れてきた信者」は、本当に心がこもっていない御供えをしたのだということが分かりました。

結果

ということで、お供え物に関して今回分かったことは、僕が想定していた結果通りにはならず、

1、教祖は例え、余り物であったとしても、心がこもっているならお喜びになる。
2、立派な重箱にお餅を入れてきた信者は、本当に心がこもっていない御供えをしていた。

以上、2点となります。

1の結果は中々面白い視点ですが、2の結果は本当に誰得?な情報になってしましました。


おまけタイム


どーも!一刻も早く寝たい男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

どうして早く寝たいかというと、明日は朝の神殿掃除当番で、3時半に起床しなくてはいけないからです。


これはおまけタイムを考えている暇はありません。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!














サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!