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255.信仰の指針

はじめに


唐突ですが、ふと思うところがありまして、
「教外と教内どちらにも通じる天理教の指針」
について考えてみました。

まず、考えた結論を述べると、

自分の事は神様がしてくれるから、
自分は人の事をすればいい。

つまり、

「自分の事は心配いらない」

これが天理教の指針になると思ったんです。

ということで、今日はこの事について書いていきたいと思います。


自己中心的な欲を捨てる


信仰する上で「自分を捨てる」「欲を捨てる」ということは、避けては通れません。

でも、
「自分を捨てなさい」
「欲を捨てなさい」
って聞くと、げんなりしますよね。

なぜげんなりしてしまうのでしょうか?


それは、
理由を知らないからです。


理由が分からないのに、
「自分を捨てなさい」
「欲を捨てなさい」
と言われたら、そりゃ嫌な気分になると思います。

ですので、

信仰する上で「自分を捨てる」「欲を捨てる」ということは、避けては通れません。

この言葉の解像度をもう少し上げて考えてみましょう。

「自分を捨てる」「欲を捨てる」の解像度を上げるとどうなるかと言えば、
「自己中心的な欲を捨てる」
ということになると思います。

これは信仰する上で避けては通れない道です。


自己中心的な心の行く末に、幸せは存在しません。


「自分の欲を満たすこと」

これが自分の幸せだと勘違いするところから、狂いが起こってきます。


「自分の欲を捨てる」ということが、
・辛いこと
・苦しいこと
・我慢が必要なこと

このように思ってしまうことが、心を変える勇気を阻害します。


ポイント
×自分の欲を満たす=幸せ
×自分の欲を捨てる=しんどい


ですから、
信仰する上で「自分を捨てる」「欲を捨てる」ことが避けては通れない理由は単純明快で、


自己中心的な心では幸せになれないからです。


幸せの問題だと考えると、この問題は信仰だけに限った話ではないかもしれません。


我欲=八つのほこり


ところで、「欲を捨てる」という話をすると
「欲が無いと人間は生きていけないじゃないか」
という意見を頂戴することがあります。

ここでいう欲とは「睡眠欲」とか「生理欲」等まで含んだものではなく、あくまで
「自己中心的な欲」
のことを指します。

自己中心的な欲とは「八つのほこり」の事です。
(をしい・ほしい・にくい・かわいい・うらみ・はらだち・よく・こうまん)

これは、「基本教理を身につけよう:上田嘉太郎に分かりやすい説明が書かれているので引用します。

 みかぐらうたでは、「八つのほこり」のうち、よくだけが登場します。手振りはかき寄せる格好をします。これは物や金銭を求めることはもちろんですが。人に対して、あれこれと要求する、注文をつけることも含んでいるように思います。
 即ち、自分中心の心遣い。利己的な心遣いであります。その意味では、よくの語はみかぐらうたの中で、八つのほこりの代表として用いられていると言ってもよいのではないでしょうか。ちょっと考えてみるとお分かりになるように、八つのほこりの心遣いは、どれも自分中心の心遣いです。
「基本教理を身につけよう:上田嘉太郎」

ここに書いてあるように、八つのほこりの心遣いは、どれも自己中心の心遣いです。

自己中心的な心遣いとは、
「もっと得したい」
「もっと欲しい」
「俺が俺が」
「私が私が」
こんなイメージかもしれません。


もちろん、こういった己の欲望むき出しの感情も自己中心的な欲なのですが、これとは別に、気づきにくく、見落とされがちな欲があります。


心配や不安はほこり?


自己中心的な心遣いは、
未来に対する「心配や不安
によっても引き起こされます。

むしろ、こちらの方が気づきにくく、改めにくいので問題は深刻です。


将来の生活が心配だから
「もっとお金がほしい」

いつか必要になるかもしれないから
「手放すのがをしい」

いつか自分の地位を脅かすかもしれないから
「あいつがにくい」

このように未来に対する不安や心配が発端になって、自己中心的な心になってしまう経験は、誰しもあるのではないでしょうか。

ですから、
まず不安や心配を取り除かないことには、ほこりを払う事は難しいのです。


冒頭に述べた、
「自分の事は心配いらない」
にはこのように、
心配していたらほこりが払えない
という意味合いが含まれています。


ではどうすれば、不安や心配を取り除くことができるのでしょうか?



元を知る


その答えは明確にあります。

それは、

「元を知る」

という事です。


人間は知らないものに対して、恐怖や嫌悪感を抱きます。

例えば、
真夜中に窓がガタガタ揺れている音を聞いて、その原因が分からなかったら
「幽霊かもしれない」
「強盗かもしれない」
と怯えます。

また、原因不明の体調不良が続けば
「重い病気だったらどうしよう」
と不安が募ります。


分からないから怯えるし、不安も募るんです。


しかし、
窓がガタガタ鳴る原因が「風」だと分かれば、
体調不良の原因が「寝不足」分かれば、
「なーんだ大したことないや」
と安心できますし、対策も練ることができます。


未来に対する不安や心配も、
そこから発生する欲の心も、
「将来どうなるか分からない」という不安から発せられるものじゃないかと思うのです。


この未来に対する不安や心配を払拭するためには、
「元を知る」
これが一番の近道だと思います。


この「元」を具体的にいくつか挙げると

・人間は何故生まれてきたのか
・人間の生きる目的はなんなのか
・目的達成のためにはどうすればよいのか
・目的達成のために世界の法則はどうなっているのか
 等々

元(天理教の教え)は、これらの事が明確に語られていますので、
元を知り、腑に落とすことで、
生きる指針が定まり
安心感が生まれ、
将来に対する不安や心配はなくなると思うのです

こうなれば、不安や心配から生まれるほこりの心遣いをしてしまうことは、各段に少なくなると思います。


人を救けて我が身救かる


天理教の代名詞の一つに
「人を救けて我が身救かる」
があります。

これを実践するためには
「自分の事は心配いらない」
という感覚は大事です。

自分の都合や損得を優先していれば、人救けに全力を注ぐことなんてできません。

冒頭で、

自分の事は神様がしてくれるから、自分は人の事をすればいい。

と書きましたが、
これはまさしく「人を救けて我が身救かる」を言い換えた言葉なんです。

明治・大正時代の先人の多くは、自分のことは全く心配せずに、神様にもたれて人救けに奔走されていました。

そのことを思うと、
「自分の事は心配いらない」
という感覚は
「神様にもたれる感覚」
と言えるかもしれません。


まとめ


「自分の事は心配いらない」
に込めた意味をまとめると、

・元を知ることで、不安や心配を取ることができる。
・不安や心配を取ることで、ほこりの心遣いを抑えられる。
・不安や心配が無くなれば、神様にもたれることが出来る。


以上の結果、
「人救けに全集中できる」


これからの時代「人を救けたい」「人の役に立ちたい」と思う人がどんどん増えていくことは確実です。

その人救けの揺るぎない芯になるのが、
「自分の事は心配いらない」
という、
「神様にもたれる心」
ではないかと思うのです。


おまけタイム


どーも!更新頻度を気にしなくなってしまった男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

更新頻度が低くなる一番の弊害は、おまけタイムに何を書けばいいか分からなくなることだと、最近気が付きました。

本編は書けているのに、おまけタイムが書けていないせいで更新できないことも多々あったりして…(本末転倒)

おそらく、僕はおまけタイムで自分の本心を隠していたんだと思います。

「素晴らしいおまけタイムを書かないといけない」
「おまけタイムの手を抜くと読んでもらえない」
「スタイリッシュなおまけタイムで、皆に認められたい」

こういった思いが積り重なり、いつしか虚勢で塗り固められたおまけタイムになっていた。

だから、おまけタイムを書けなくなっていたです。

もっと心の奥からの叫びを、素の自分を出していきたいと思います。




「寒い、スタメン食べたい。」




本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!