11.人間はなぜこの世に存在するのか #3

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「九億九万九千九百九十九」の象徴的意味


元の理に出てくる、「九億九万九千九百九十九」という数を、象徴的に解釈していきます。

人間が神の子として成長して、その成長がギリギリのところ(限界点)まで来たということを、「九億九万九千九百九十九」という象徴的な言葉で表現しているのです。
(ちなみに記事の中で僕は、ハゲキャラで通っていますが、実際にハゲているわけではなく、象徴的にハゲているのです。)【…何言ってんだコイツ(´-`)】

これは松本滋先生自身の悟りですが、
九億九万九千九百九十九というのは実際の数ではなく、
「九十九」の三つ重ねだと考えます。

「九億九万」「九千九百」「九十九」がそれぞれ九十九を現しており、九十九の意味が繰り返し強調されているのです。

つまり、限界一杯、ギリギリ一杯成長して、あと少しで百と言うところまで来た。それが三回も繰り返されているのです。

この「三度の繰り返し」は物語の世界ではよく見られるパターンです。
繰り返しには、物事を強調する力があります。
(深い底のことを底の底、劣っている者を愚の愚、ハゲている者をツルツルと重ねて言えば強調されます)

二つ繰り返すだけでも強調する意味がありますが、三度繰り返すパターンは、昔話にもよく出てくる型で、もっと強く意味を強調します。

「九十九」は、本質的に、あと一つ足したら百になる数です。
「九」に一を足して十になることよりも、
更に強くギリギリまで成長したという「限界」を強調しています。

人間は誕生してから今まで(九十九まで)は、どれだけ成長しても、子供として成長してきた年限であり、いつまで経っても子供の枠に留まっているということです。

しかし、あと「一」を足すことで、「百」になる。つまり、人間は真に成人出来る状態に来ました。

その「一」が何かと言うと、松本滋は著書の中で
「元一つ」(なぜ人間がこの世に存在するのか)

「親一つ」(人間を創った親(神)の思い)
と述べています。


元一つ親一つの理


この最後のピースである「一」を示したのが、「教祖」であり、「元の理」です。

これが天理教が「だめの教え」(最後の教え、究極の教え)と言われることの大事なポイントです。

「画竜点睛」という言葉があります。
点睛の「睛」は眼のことです。
竜の絵を全て描き上げても、眼が描かれていなかったら、その竜は生きてこない。眼は全体でみれば小さく見えますが、その眼を入れただけで竜全体が生き生きしてきます。
「だめの教え」とは、その眼玉のような肝心要の「教え」なのです。

「九億九万九千九百九十九という、子数の年限が経った時」とは、
「人間は子供として、自力で成長出来るギリギリのところまで来た時」という意味です。

元の親を知って、その親の思いにそった生き方をすることによって、初めて人間は完成するのです。



おまけタイム


どーも!最近の若者に、
「将来設計はしっかりせんといかん」
と言って、お墓の購入を勧める男、ほこりまみれの信仰者こーせーです!

究極の二択として、最もよく挙げられるもに、
「カレー味のうんこか、うんこ味のカレーどちらを食べるか」
というものがあります。

頭髪の世界にも究極の二択がありまして、
「ハゲてから坊主にするか、ハゲる前に坊主にするか」
というものがあります。

ハゲてから坊主にした場合、あからさまにハゲ隠ししていることがバレてしまいます。

しかし、ハゲる前に坊主にした場合、ハゲ隠しだとはバレませんが、命の次に大切な頭髪を、自ら刈り取るという行為に、背徳感があることは否めません。

究極の二択、皆さんはどちらを選びますか?


あと、内容の難しい記事が続くので、明日は違う内容の記事を一旦挟もうかと思います。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


#4に続く



参考図書

たましいの物語としての元の理 
著:松本滋  出版:天理教道友社




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