見出し画像

257.「おつとめの手振り、人それぞれ違う問題」に対する私見

はじめに


先日、某秘密合宿に参加されているBJさんと言う方が、こんなnoteを書いてました。


さてタブーを斬る問題である。昼食時にも担任、副担任の先生にもぶつけてみた。

いわゆる「いちれつすまして問題」改め「せきこむいちれつ問題」である。

天理教の方々はピンとくると思うが、数あるおてふりにおいてここの部分のみ?「やたら各自でおてふりが違う」のである。

生徒、担任、副担任の侃侃諤諤の議論の結果(食堂では黙食でお願いします)

副担任

「人それぞれですね」

それ一番言っちゃいけないやつ!!

担任

「気持ちがこもってればなんでもいいんです!」

もともこもねー!祭儀全部否定しちゃったよ!!気持込めてバク転するぞ!出来ないけど、🤣🤣🤣

元記事はこちら↓

(ちなみにBJさんは、面白い話しとしてこの記事を書いてますので、悪意のある解釈はしないようにお願いします。)※本人にそう聞きました。

(そんなBJさんにふりかけ買ってあげて下さい🥺)


ここで言う「せきこむいちれつ問題」改め、
「おてふり人それぞれ違う問題」が取り沙汰されるのは、天理教ではあるあるだと思います。

また、違いなんて気にした事なかった勢も沢山おられると思いますが、講習等でおてふりの講師に当たる本部青年の方々は、

「教会では芯になる会長さんに合わせて下さい」
「『本部ではこう教わった、教会のおてふりは違う』という事ではありません」

このように注意事項として言う申し合わせをしてる風景をよく見かけます。

これは、
「教祖が教えて下さった正確なおてふりが分からない」
という問題でもあるのですが、だからと言って
「人それぞれ」
「気持ちがこもっていればなんでも良い」

という返答だけでは、その問題から逃げている気がしましたので、僕なりの私見を述べてみようと思います。


理をふる


まず「稿本天理教教祖伝」に書かれている、おてふりに関する記述を見ていきたいと思います。


稿本天理教教祖伝 95P

「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。ただ踊るのではない、理を振るのや

「つとめに、手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃしているからや。一つ手の振り方間違うても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」

このように、

「理を振るのや」

「一つ手の振り方間違うても、宜敷ない。」

と「稿本天理教教祖伝」に書かれているので、おてふりを間違えずに踊ることの大切さが分かります。

さらに原典である「おふでさき」にも

つとめさい ちがハんよふに なあたなら

天のあたゑも ちがう事なし 10-34


このように、おつとめが間違いなくできるようになれば、天の与えも違う事はないと言われています。


※ただし、おふでさきに出てくる「つとめ」は、一貫して「かぐらづとめ」を指します。
参照:天理教教理入門「つとめ・さづけ」永尾広海


しかし、おふでさきを厳密に掘り出すと、「かぐらづとめ」と「朝夕のおつとめ」と「十二下りのてをどり」は何が違うのかを考えなくてはいけなくなり、思案の難易度が格段に上がってしまうので、今回はスルーです。


とりあえずここでは、基本的に「おつとめ」は間違えないことが大事という理解で進めていきたいと思います。


恥をかかす>間違える



では、なぜこのように間違えてはいけないと言われている「おつとめ」の手振りが統一されていないという事態が起こっているのでしょうか。

この件については、天理教教祖伝逸話篇「十九子供が羽根を」が、示唆深い内容になっているので、まずはこの逸話を読んでいきたいと思います。 


十九子供が羽根を
「みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応三年正月にはじまり、同八月に到る八カ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは、満三年かかりました。教祖は、三度まで教えて下さるので、六人のうち三人立つ、三人は見てる。教祖は、お手振りして教えて下されました。そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。
『恥かかすようなものや。』

と、仰っしゃったそうです。そうして、三度ずつお教え下されまして、三年かかりました。教祖は、
『正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや。』
と、言うて、お教え下されました。」
 これは、梅谷四郎兵衞が、先輩者に聞かせてもらった話である。


この逸話でまず注目したいのは、

教祖は、三度まで教えて下さるので

と書いてある箇所です。

ここから分かる様に、
教祖に「何度も手取り足取り」教えていただけるわけでは無かったようです。

そして、次に注目したいのは、

そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。
『恥かかすようなものや。』
と、仰っしゃったそうです。

この部分です。


個人的にここは大変興味深い箇所だと思いました。


教祖は、

「一つ手の振り方間違うても、宜敷ない。」
と仰っているにも関わらず、
「恥をかかすようなものや」
と仰っているということは、
「(すぐに)手振りの間違いを正すよりも、
恥をかかせない事を重要視した」
という事になると読み取れます。



なぜ、恥をかかせない事を重要視したのでしょうか?


この問いに答える前に、少しだけ「日本人にとっての恥」について書きたいと思います。



日本人は恥の文化


ここで参考になるのは、アメリカの女性人類学者であるルーズ・ベネディクト氏が提唱した
「恥の文化」と「罪の文化」
という概念です。

ベネディクト氏は


「真の罪の文化が内面的な罪の自覚に基づいて善行を行うのに対して、
真の恥の文化は外面的な強制力に基づいて善行を行う

このように述べています。

つまり日本人の規範意識は、罪ではなく恥にあります。


「恥ずかしいからやめなさい」
「こんなことになって一族の恥だ」

「恥ずかしくて表を歩けない」

こういった言葉に代表される様に、日本人は周りからどの様に見られるかという事に重きを置いています。

近所のおばちゃんが
「あんな恥をかいたのに、平気な顔でよく表を歩けるわね」

と言ってる姿を思い浮かべてもらうと、なんとなく想像がつくと思うのですが、日本人は恥をかいた人に対してマウントを取り、心理的に人間関係に上下関係を作る傾向があると思います。

「他人の不幸は蜜の味」
という感覚も、これに近いものがあるかもしれません。

また、
「旅の恥はかき捨て」
ということわざがあるように、知り合いのいない場では、平気で恥をかくことも出来るという事から、
「恥」は親しい人間関係に影響を及ぼす事が分かります。

教祖がおつとめを教えられたのは幕末なので、この傾向は現代の日本人より格段に強かった事が想像できますね。

以上の内容を簡単にまとめると、
恥をかかすと、
親しい間柄で、
心理的に、
「上下関係を作ってしまう」
これが問題なのではないかと思いました。



心を揃える重要性



「恥の文化」から、教祖がなぜ恥をかかさない事を重視されたかを考察すると、

教祖はおつとめをつとめる際、

「全員で心を揃えることを最重要視された」
のではないかと思いました。

例えば教祖に、
「何度も手振りを直された人」と、
「手振りをほとんど直されなかった人」
こういった2名が居た場合を考えてみましょう。

手振りをほとんど直されなかった人は、
「私は教祖に注意されなかった。だから私の手振りは教祖に認められたので、皆んなが私に合わせた方が良い」
と、人を自分に合わさせようたとする傲慢さが出てくるかもしれません。

また、手振りを何度も直された人は、
「私はおてふりが向いてないんだ」
と落ち込んでしまったり、
「恥をかかされた」
と思って、おつとめの練習が嫌になるかもしれません

反対に、
「私は教祖から正しい手振りになるまで直していただいた。だから私一番正しい手振りをしている」
と思っちゃう可能性だってあります。

いずれにしても、
自分中心の考え方になってしまっては、
「全員で心を揃える」
という事に関しては、マイナスにしか働きません。


また、天理教教祖伝逸話篇「54心で弾け」では、
「稽古出来ていなければ、道具の前に座って、心で弾け。その心を受け取る。」
このようなお言葉が残っています。

この逸話の詳しい内容は、以前のnoteに書きましたので、そちらをご確認ください。


鳴り物の話しではありますが、

「心で弾け、その心を受け取る」

という言葉があることを考えると、BJさんが担任から説明された
「気持ちがこもっていればなんでもいいんです」
という言葉も、あながち間違いではないかもしれません。
(もちろんバク転は許容範囲を超えてます)

つまり、おつとめで最も重要なのは、
・心を揃える事
・心を込める事

この2点ではないかと思います。


芯に合わせる


「心を込める」は何となく想像できますが、
「心を揃える」って、具体的にどうすれば良いのか気になりますよね。

心を揃える方法は、
「芯になる人に手振りを合わせる」
これで心を揃えます。

つまり、
心は目に見えないので、
全員の動作を揃える事を通して心を揃えるってことです。

冒頭でも述べましたが、「おつとめの正しい手振り」は誰にも分かりません。

「おてふり概要」が道友社から出版されていますが、その内容も著者である
「山澤為次氏が解釈する手振り」ということになっています。

あと、これは本部の講習会等でおてふりの講師を務める青年さんから聞いた話ですが、
「『本部で習ったおてふりと違うから、教会のおてふりは間違っている』という事ではありません。教会では芯になる会長さんに合わせて下さい
と説明されているそうです。


ですから、おつとめには厳格な正解の手振りがあり、それに合わせる事で全員がピッタリ揃うという事はありません。


これは、個人的にかなり面白い事だと思います。


何が面白いかと言うと、

おつとめは各々が神様に心を向けるだけでは、一つに揃わないという事です。(図1)

一つに揃うためには、

芯になる人は
「神様に心を向ける」
芯以外の人は
「神様に心を向けている人(芯)に合わせる」
(神様に心は向けつつも)
(図2)

このようにして、おつとめは一つに揃います。


画像1


まとめ


今回問題提起された
「おてふり人それぞれ違う問題」
ですが、僕の結論は、

皆んなでおつとめをつとめる時は、
正しい手振りを追求するより、
芯に合わせる事が大切。

という事になりました。

教理的にも、「人間の自主性」や「人間同士の助け合い」を重視されている事から、とりあえずこれでいいんじゃないかと思います。


ちなみに


では、手振りはこのままずっと「人それぞれ」でいくのかと言われたら、個人的にはそんな事ないかもしれないと思ってます。

その理由は、
音楽的才能を持っていた三代真柱中山善衛氏が、お歌のメロディーのひながたを提示したように、その道の才能を持った方が真柱の理を継承された際は、手振りのひながたが提示されるのではないかと妄想を繰り広げてるからです。


おまけタイム


どーも!久しぶりに更新した男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今回はかなり久しぶりの更新になってしまいました。

この記事、本当は先週の真ん中あたりに出す予定だったのですが、そのタイミングで祖母が出直したため、葬儀の関係もあって中々noteを書く暇がなかったんです。

あと、お酒を飲んだら中々筆が進みません。
(ほぼこっちの理由)


さて、言い訳はこれくらいにして本題に入りたいと思います。


皆さんにとって、カレーのトッピングNo.1は何でしょうか?

トンカツ、唐揚げ、キムチマヨ等、色々ありますが、今回伝えたいのは僕のNo.1の話しではありません。

僕の知り合いが、カレーのトッピングで1番美味いのは、

「カレーコロッケ」

って言ってたんです(°_°)

カレーのトッピングにカレーコロッケ…

トッピングほぼ「ころも」やん!

と思ったのですが、その方が激推ししてくるので、誰かカレーコロッケをトッピングしたカレーを食べて、僕に感想を教えて下さい。


自分では試しませんのでよろしくお願いします!


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!













サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!