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246.「人を救ける」の本質に迫る

はじめに


先日、お風呂の中で

「人を救けるっていうのは、自分が救けるのはなく、神様と相手を繋ぐ事か」

と思い浮かんだので、
なんでそう思ったのかを、書きながら考えていきたいと思います。


人を救けるって何をする事?


湯船に浸かっていると、
稿本天理教教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」(以下逸話)
この逸話が心に浮かんできました。

稿本天理教教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」
(前略)
又、妻のイヱも、楽々と男児を安産させて頂いた。早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖に心からお礼申し上げると、教祖は、
「心一条に成ったので、救かったのや。」
と、仰せられ、大層喜んで下さった。定吉は、
「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」
と、伺うと、教祖は、
「人を救けるのやで。」
と、仰せられた。それで、
「どうしたら、人さんが救かりますか。」
と、お尋ねすると、教祖は、
「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」
と、仰せられ、コバシ(註、ハッタイ粉に同じ)を二、三合下された。そして、
「これは御供やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや。」
と、仰せられた。
 そこで、これを頂いて、喜んで家へもどってみると、あちらもこちらも病人だらけである。そこへ、教祖にお教え頂いた通り、御供を持っておたすけに行くと、次から次へと皆救かって、信心する人がふえて来た。

この逸話は、講和等でめちゃくちゃ引用される逸話です。
一番多い引用のされ方は
「神様に御恩を返す方法は、人を救けることである」
このような文脈で使われることが多いと思います。

二番目に多い引用のされ方は
「人を救ける方法は難しい事ではありません、自分が救けていただいた事を相手に真剣にお話させて頂けばいいんです」
このような文脈ではないでしょうか。

どちらもよく聞く話ですが、僕にはここで一つ疑問が生まれました。


一般的に考えて

「人を救ける」=「自分が救けられた話をする」

この方程式は成り立たないんじゃない?


こう思っちゃったんですよね。


「人を救けること」は普通に考えると、
病気を治したり
金銭を恵んだり
お手伝いをする事
こういった内容が思い浮かびます。

しかし教祖は、

「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」

このように仰いました。

「人を救けること」が
「自分が救けられた話しをすること」だとは、
一般的に考えたら繋がらないと思います。

繋がらないのに、今まで僕はこの言葉を当たり前のように考えていたんです。

でも、それは当たり前の言葉じゃありませんでした。

そこで何故教祖は、
「人を救ける」=「自分が救けられた話をする」
このように仰られたのかを掘っていきたいと思います。


ラーメン屋に変換してみる


逸話の内容を、
教祖→ラーメン屋の店主
定吉→腹を空かせて倒れそうな旅人

このように入れ替えて考えてみると、以下のようになります。

腹を空かせて今にも倒れそうな旅人に、ラーメン屋の店主がラーメンを差し出す。
「これ食べな」
そのラーメンを食べて助かった旅人が言う。
「このご恩、どうやって返せば良いでしょうか」
店主が応える。
「じゃあ人救けをしな」
更に旅人は聞く。
「どうしたら人は救かりますか」
店主が応える。
「飢えている人に、このラーメンを食べて助かったって話を、真剣にすればいい」
店主は旅人に荷物を渡す。
「これはインスタント食品だから、飢えてる人がいたらやってくれ」

(雑な内容ですが多めに見て下さい)

こうやってラーメン屋に変換してみると、色々なことに気づかされました。

その気づきを、いくつかの項目に分けて書いていきます


1、「同じ事をやりなさい」ではない


一般的に、

「されて嬉しかった事は相手に返すのではなく、別の人に返しなさい。
自分がされて嬉しかった事を別の人にしてあげる。
こうすることで、喜びの連鎖が起こります。」

こういう話はよく聞きます。

例:先輩にご飯を奢って貰い嬉しかったら、自分も後輩にご飯を奢る。

↑こういうやつです。


この理論でいくと、旅人は自分もラーメン屋になって、お腹を空かせた人たちにラーメンを振る舞う事が、恩返しになるかと思います。

しかしラーメン屋の店主は、
お前もラーメン屋になって俺と同じように人を救けなさいとは言われてません。

「飢えている人に、このラーメンを食べて助かったって話を、真剣にすればいい」

こう言われています。

つまり、教祖は僕たち人間に対して
「私と同じように(真似をして)人を救いなさい」
とは言われていないんです。


2、繋ぐ事を求められている


では、人間は一体何を求められているのでしょうか?

店主は

「飢えている人に、このラーメンを食べて助かったって話を、真剣にすればいい」

こう言いました。

教祖は、

「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」

このように仰いました。

つまり、
まだ神様(ラーメン屋)を知らない人に対して、
救けて下さる神様(場所)があると伝える。

「神様と相手を繋ぐ」


更に言えば、
本当のことを言えば、神様は全ての人間とすでに繋がっていますので、

「神様と人間が繋がっていることに気づいてもらう」

これが、
人を救ける」という事の
「根本であり」
「大切な事」
こう思えるようになってきました。


3、道具(路銀)まで渡される


さらに、
道具という表現しか思いつかなかったのですが、教祖(店主)は、その場ですぐに困っている人を救けられる道具まで与えて下さっています。

教祖は、

「これは御供やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや。」

店主は、

「これはインスタント食品だから、飢えてる人がいたらやってくれ」

道具の効果は絶大です。

この御供(インスタント食品)のおかげで、困っている人をその場で神様に繋ぐ事ができます。

どれだけ救けてくれる神様(場所)がいると言っても、言葉だけでは中々信じることが出来ません。

信じることが出来なければ、繋がることが出来ません。

ですから教祖は、
神様のご守護を感じられるもの(御供)
を持たせて下さったんだと思います。


「信じる」を得るためには
「知る」or「感じる」
を先に取りにいかなくていけないからです。

(詳しくは以下のnoteへ)


このように考えていくと、教祖の親心の厚さが身に染みて分かってくる気がします。


まとめ


稿本天理教教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」から
「人を救ける」=「自分が救けられた話をする」
ここを掘っていくと、

「神様と教えを知らない人々を繋げる事」

それは、
決して人を救うのは自分ではないという事、
神様にお繋ぎすれば大丈夫だという事、
人救けに気負う必要は無いという事、

こういった様々な意味合いが含まれている言葉だと思います。

繋ぎが、
神様に対する恩返しになり、
本当の意味で人を救ける事になる。
そうお風呂の中で思った次第です。


おまけタイム


どーも!子供が可愛すぎるが故にインスタで
「ほっこりまみれのこーせー」
と言うアカウントを作って子供の動画をアップしている男
ほこりまみれの信仰者こーせーです。

最近悩みがあるんです。

それは、

「ほこりまみれの信仰者こーせー」

と言う名前が長すぎるという悩みで、本気でアカウント名を変更しようか考えています。

Twitterのスペースで話す時に、アカウント名の頭が表示されるのですが、僕の場合
「ほこりまみ…」
と表示されてしまい、名前が呼びにくいと言う切実な問題を抱えております泣

単純に「こーせー」じゃ面白くないし、
「まみれ」だとなんかなんかだし。

かと言って他にしっくりくる名前も思い浮かばないので、どうしようかと困っています。

良い解決案があれば教えて下さい!



ただそれだけをお願いする今回のおまけタイムでございました。


最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!