見出し画像

年末年始に聖書の学びと菜食生活をしてきた

12月29日から1月2日まで、千葉の小さな集落で聖書について学んできた。

大阪から引っ越してきて1年。新しい教会を探して転々と回ってみて、どこにも定着できずに 仕事中心に過ごしてきて。でも、聖書に自分の土台を持ちたいという思いと、単に街から離れて静かな場所で過ごしたいという休息と合わせて行ってきました。

そして4日間たくさんのことを学ばせてもらった。そのことを忘れないように。真偽はまだ判断できていない部分もあるけれど、それも合わせて記録して置けたら。

はじめ:わたしがキリスト教から得たいもの

元々キリスト教を信じたいと思った主な理由は以下の2つへの回答が欲しかったから。そして洗礼から6年経っても、求めているものは同じでした。つまり進歩できていなかった。

ア.わたしの存在の目的
なんのために、わたしはこの世に生まれてきたのか?恵まれた環境で生きてきてとても傲慢であることは頭では分かりつつ。確かに人生に喜びや楽しいことはあるけれど、それ以上に、辛いこと苦しいことの時間と量の方が多いと感じる。どうして、わたしはこの人生を生きなければいけないのか?
イ.マイナスな習慣
20歳を過ぎて、生活のリズムや必要なお金をある程度自分の手に持つようになってから、自由を得るようになってから、同時に「辞めたいのに辞められない」「ただ現実から目を背けるために時間を潰しているだけ」「世俗的なものに魅かれてしまいすぎている」そのような習慣や側面が出てきました。
・ストレス解消に甘いものをたくさん食べる。
・ウェブまんがで夜更かしする。
・社会的評価の高いひとたちをウェブ上で見つけて落ち込む。
とか。

こんないやな自分から変わりたい、その中で、自己啓発本とかほんの少しだけ儒教仏教について学んできたけれどもあまり興味引かれず。自分の人生に一番回答を与えてくれ得るものはキリスト教と感じていて、改めて学び直してみたのでした。

そして、今回学んだ聖書の解釈は、今まで知ってきたプロテスタントの解釈と一部異なるものでした。

1:原罪の有無

ひとつめが「原罪」の有無でした。わたしは今まで "人は生まれながらにしてアダムの罪を背負っている" と習ってきましたが、今回習ったのは "人は罪に負けやすい性質は持っているが罪を生まれながら持っているわけではない" という考え方でした。そもそも原罪とは?

原罪(デジタル大辞泉)
キリスト教で、人類が最初に犯した罪。アダムとイブが禁断の木の実を口にし、神の命令に背いた罪。アダムの子孫である人類はこの罪を負うとされる。

それでは原罪説はどのようにはじまったのか?紀元2世紀にリヨンの祭司エイレナイオスによって唱えられ、その後アウグスティヌスによって確立されて以降西方教会で採用され引き継がれてきた解釈でした。Wikipediaによるとアウグスティヌスによる原罪説の根拠とされる聖書箇所は以下3つ。

ローマ人への手紙5:12−21(新改訳/ここでは12節のみ記載)
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
コリント人への手紙 第一 15:21−22(新改訳)
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
詩篇51:5(口語訳)
見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。

一方で、原罪説の否定にあたり上記の解釈と根拠への批判は以下でした(わたしが勝手に結びつけたものもあるかもです)

子どもを生むことの否定 罪が血によって受け継がれるならば、子どもを生むこと=罪人を増やすことになり、創世記第1:28の言葉「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」の理解がし難い。

(この批判に対するわたしの疑問:でもこの時アダムはまだ罪を犯す前の指示だから、この箇所を以て批判するのはずれていないか?)
ヤコブの手紙1:14−15 新約聖書には「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」とある。"罪"の前段階として確かに"欲"というものが定義されており、つまり原始的にひとの中にあるものは欲であり罪ではない。
原罪を持つならば、ひとは罪から救われ得ない マタイの福音書1:21には「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」と書かれている。ひとが原罪を持つならば、ひとである限り罪 "から" 救われることはあり得ない。
● 詩篇51:5は読み間違えられている 原罪説を取る立場からは「わたしの母は/罪のうちにわたしをみごもりました」と読むが正しくは「わたしの母は罪のうちに/わたしをみごもりました」ではないか。後者では罪があるのは"わたし"ではなく"母"である。

(この批判に対して考えたこと)この箇所は 前後を読んでも修飾関係が分かりにくいので他の訳も見て参考にしなければいけない。
新改訳:ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
King James Version:Behold, I was shapen in iniquity; and in sin did my mother conceive me.
New International Version:Surely I was sinful at birth, sinful from the time my mother conceived me.

上2つの新改訳・King James Versionからはどちらともとり得るがNew International Versionを読むと明確に、sinful は mother ではなく me に掛かっていることから、上記の「詩篇51:5は読み間違えられている」という主張は正しいとは言えなさそう。

以上から結果的に思うのは:どちらも間違ったことは言っていないと思うけれど、実生活を思うとき わたしはやはり罪から救われたいし 罪のない存在になりたい。そのときわたしの全ての罪は内在的なものではなくてわたしの選択の結果であると考えた方が、実践的だと感じている。

2:十戒の永遠性と安息日

画像1

サンドロ・ボッティチェッリ『モーセの試練』

2つ目に学んだのが「モーセの十戒」が現代においてもいかに守られるべき大切なものであるかということでした。十戒とは、モーセがシナイ山で上から授かった10の戒めのこと。旧約聖書の出エジプト記20:3-17、申命記5:7-21より。

第1条:あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
第2条:あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
第3条:あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
第4条:安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
第5条:あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
第6条:殺してはならない。
第7条:姦淫してはならない。
第8条:盗んではならない。
第9条:あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
第10条:あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

これらの戒めについて、今回は以下の意見を学んだ。

● 十戒は新約時代においても変わらず強く守られるべきである

十戒の有効性について。以下の聖書箇所を根拠に 旧い契約はイエスキリストの誕生により捨て去られ 新しい契約に替わられたとも教えを受けたことがある。

 "主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる(エレミヤ31:31-32, 口語訳)"

一方で、聖書の他の箇所を見る限り十戒は現在も有効なものであるとも思われる。

 "すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである(ローマ人への手紙3:31, 口語訳)"

 "わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない(ガラテヤ人への手紙3:31, 口語訳)"

新約の時代でも十戒が有効か否かについて、一見聖書内でも相反することが述べられているように読めるなかで現在のキリスト教でも意見は分かれるようですが「現在も有効である」とする解釈が主流なようです。

参考1. ENCYCLOPEDIA BRITANNICA
Christians see in the New Testament the fulfillment of the promise of the Old Testament. (キリスト教信者たちは新約聖書を旧約聖書の約束を補完するものと見ている)

参考2. 佐藤優『日本人のためのキリスト教神学入門』第162回
上述したように、モーセの律法が鋳直されて、イエスの福音になった。しかしまた、イエスは律法を廃止するためにではなく、満たすためにやってきたということも述べた。シナイの律法は、今日でもキリスト教会において道の指標、絶えざる神の導き、あらゆる命の導きの証拠としてとどまっている。

以上を元に「現代においても私たちがモーセの十戒を守らなければいけない」という考え方は否定され得ないと思う。しかしその解釈下で動くとき、今回学んだのが以下の指摘だった。

● 現代の多くのキリスト教会は第4条を軽んじている 
そもそも十戒自体が(わたしが振り返る限り)説教で取り上げられる機会が少ないと思うのだけれど、確かに改めて読み返すと、十戒の中で安息日の掟は最も長く説明されて諭されている。また新約聖書の中でも「安息日」という単語は56回出てきているようだった(参照)。これらを考慮すると安息日という制度はもっと注目されるべきであるかもしれない。

そして 最後に十戒の安息日について学んだのは、これは多分西方教会と異なる立場を取る主張なのだけれど、礼拝は安息日に行われるべきという考え方でした。

● 礼拝は安息日に行うべきである 
恥ずかしいことに、わたしはずっと安息日は日曜日と思っていた。創世記には「神は...そのすべての作業を終わって第七日に休まれた」とあり 一方で週は日曜日から始まるから 7日目=土曜日 であると容易に気づけたはずだったし、確かにキリスト教では「主日」という日曜日を表す言葉が安息日とは別にあった。

そもそもわたしが安息日を日曜日を勘違いしてしまったのは日曜日に礼拝が行われているからだったのだけれど、どうして礼拝は日曜日に行われているんだろう?

根拠のひとつめはパウロの行動。使徒行伝を読むと1世紀には確かに日曜日に"パンを裂く"という聖餐式のような行為が行われていた。

On the first day of the week, when we met to break bread, Paul was holding a discussion with them; since he intended to leave the next day, he continued speaking until midnight.(Acts20:7)

その後2世紀には神学者ユスティノスが日曜日での礼拝の実践を述べて、後に日曜礼拝が義務付けられたようだった。

一方で 年末年始の学びのなかでは「礼拝は安息日に行うべきだ」と聖書を解釈していた。その根拠になるのは多分以下だと思う。

 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる(イザヤ66:23)

けれども確かに使徒パウロは日曜日に礼拝を行っていた事実があり。以上を見る限り 聖書に基づくと 礼拝を第1の日(日曜日) or 第7の日(土曜日) どちらで行うべきかを指定する言葉は無いように思われる。

安息日を何曜日に行うべきか、は今のわたしには判断できないけれど、ひとつ、十戒については深く心に留めて実践しなければならない、と考えています。

3:ペテロの梯子と「節制」

それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。(ペテロの手紙 第2 1:5ー7)

もうひとつ心に残ったものは、新約聖書のペテロの手紙をもとにした "ペテロの梯子" というものだった。「イエスキリストを知る知識について...実を結」ぶものとなるためにクリスチャンが順番に到達すべきもの。

信仰 :見えないものを信じること
  :主はわれらの義である、という動機が与えられること
知識 :聖書に書かれていることを頭の中に蓄積すること
節制 :食事、水分、日光、運動、睡眠、呼吸、整頓、徹底、敏速
忍耐 :新しく生まれ変わる経験を信じて待つ続けること。
信心 :本当に生まれ変わること。
兄弟愛:同じ信仰を持つ友を心から愛すること
  :敵をも心から愛すること

この中でわたしにとって大きな学びだったのは、身に付けていくには 順番がある ということ。信仰から徳へ、徳から知識へ。一見互いに独立に見える8つの心の動きだけれど、ひとつひとつ順に重ねていく必要があるということ。

もうひとつ、この年末年始を通してわたしが実際に体験したことは上記の4つめにある「節制」でした。具体的には、 規則正しいリズムの中で ヴィーガンの生活を送るということ。毎日同じ7時に起きて、8時、12時、18時にごはんを食べて、22~23時に寝る。ヴィーガン / 菜食主義は以下のような日々でした。

朝ごはん
玄米
豆腐とコーンのサラダ
えのきの海苔巻き
具だくさんお味噌汁
おひるごはん
玄米のアボガドと大豆ミートのせ丼
かぼちゃ豆乳スープ
地元のみかん、りんご
夕ごはん
玄米もちと豆もちのお雑煮(具はにんじん、大根、里芋、庭で取れたねぎ)
さつまいもの石焼き

滞在先のお家が大切にされていたのは:
動物性の食品はたべない(牛乳・卵も含む)
精製された油は使わない(脂質はゴマやナッツから摂る)
調味料は添加物が含まれるものを避ける
食材はできるだけ地元のものを使う

追加で出来るときはされていたこと:
野菜と果物は同じ食事内で一緒に摂取しない(野菜と果物は必要な消化酵素が異なるので、別々に食べた方が負担が小さい)

当初は、わたしヴィーガンで5日も生活できるかな?と不安だったのですが、いざ始まってみると、3食しっかり食べていてビタミンなどもバランスよいからか、甘いものやお肉を欲することもなく過ごせました。もっと長期になったらまた欲求が出てくることもあるかもしれないけれど、先ずは(ストレス暴食癖があるわたしが)ヴィーガン料理で5日間過ごせたことがとてもうれしかった。そして体調がよくなるのを感じられた!

よくなった点:
夜の寝つき/朝の目覚めのわるさ 
腰の背中側の冷え
便秘
お腹まわりが全体的にすっきりしたと思う。

普段(安定している時は)緩めの糖質制限をしていたので、3食お米を食べていたら太っちゃうんじゃないかなとも思っていたのですが、そんなことはなかった。間食でのカロリー摂取を無くして、睡眠の時間と質をよくしてあげれば、ちゃんと体は適切なところに落ち着いていくのかなと思う。

休暇が開けて仕事やプライベートがいつも通りの生活に戻るとやっぱりコンビニでごはんを買ったりお菓子を食べたりはしてしまうのですが、去年の秋以降に比べてはずっと自炊をしたり、購入物の原材料に目を向けたりするようになりました。備忘録として、年末年始に食べた料理や食料品を以下にメモしておく。

自家製豆乳ヨーグルト
はちみつかけたり、にんじんジャムかけたり。とても好きだった。ジプロックのパックに1人分ずつ作っておくと長持ちで簡単らしい。レシピは忘れちゃったのだけれど、豆乳に豆乳ヨーグルトの残りを少し混ぜたら菌が繁殖してできあがるみたい。
玄米餅
どこでも売っているけれど。お餅は腹持ちよくて2個食べればお腹いっぱいになる。ごはん炊かないときは代わりに玄米もちにしていきたい。
甘酒
甘みを出したい時は、砂糖の代わりに甘酒。
茹で小豆
帰り際、茹で小豆をたくさんくれた。それを小分けして冷凍して、今はかぼちゃといとこ煮にしている。小豆は抗酸化作用。
ゆで野菜のゴマソース
ブロッコリー、キャベツ、にんじん、玉ねぎ、全部お鍋に入れてお水を少し入れてそのまま火で半分蒸すようにして、ゴマソースかけるだけ。ネギソースもあった。野菜の甘みを改めて知る。
自家製梅干し
お家で漬けた梅干しも持たせてくれました。かなり酸っぱめ!でも添加物の使われていない梅干しはなかなか手に入らないから、コンビニごはんなどが増えたときに梅干しは毒素排出してくれるから少しでも食べてね、と言ってとたくさん持たせてくれた梅干し。2日に1回は口にするようにしている。
海苔とえのきの佃煮
ごはんのお供。海藻類はたくさん食べるといいよと教えてもらった。
ベジタブルミートソース
とってもおいしいやつ!パスタ茹でて混ぜるだけで手軽だし、満足感も高い。
グルテンフリーのパンケーキミックス
これはおすすめしてもらって、これから買うやつ。オレンジページが監修しているパンケーキミックス。小麦の代わりに大豆粉と米粉らしい。豆乳で作るととてもおいしいらしい。

最後は "節制" にフォーカスしてしまったけれど、体を適切に管理するというのはとてもだいじと改めて実感した期間でした。

"あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい"(エゼキエル書24章)

おわり:2020年 日々の生活で行っていきたいこと

まだ他にも触れた聖書の内容は多々あったのだけれど、一旦わたしが理解と消化をすこしできた上記でこの投稿は区切りに。最後に、日々の生活の中で忘れずに実行していきたいことをメモして終わり。

祈り
神さまに「あなたと聖書を知るための動機と希望を与えてください」と祈る。わたしたちの意思は弱いものだから。神さまは動機も与えてくれる。

学び
貰ったテキストを毎日1ページ読む。1月中通読ができるテキスト。すこしずつでも毎日聖書の言葉に接することを大切にしてきたい。

節制
食べたいときには自分の心に尋ねる「これは罪ではないですか?」(*罪であるとは ここでは 自分で本当はだめ、よくないと思いつつ感情に流されてしまう選択のこと)
同時にすこしずつ体にベターなものを選択する癖をつける。

緑があって、空には星が見えて、雑音がなくて。携帯電話を6時間、7時間手放していても大丈夫な心の余裕を持てる生活があること。きちんと覚えておきたいな。とても有意義な年末年始の休暇でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?