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どうしても君が好きだ

 50年くらい前の時代の10年という時間と、現代における10年という時間。

 流れている時間は同じ。
 しかし、物事が変化していくスピードは遥かに現代の方が早い。
 だから、私たちが生きている「今」は、人類の歴史上最も密度の濃い時間といえるのだと思う。

 今朝、テレビをぼんやりと観ていて、それを端的に示すことに突き当たったので書き留めておきたい。

アイドル

 「アイドル」の言葉、本来の意味は「偶像」。
 古くは山口百恵やキャンディーズ、ピンクレディなど、市井のファンにとって「手が届かない存在」だった。

 2005年に産声を上げた、女性アイドルグループのレジェンド、AKB48。
 秋葉原に設けた小さな専用劇場から出発したグループは、そんなアイドルのイメージを…やがて、音楽業界のあり方すら変えてしまった。

 AKB48が掲げた「会いに行けるアイドル」というコンセプト。
 それまで常識とされてきた「アイドル像」を根底から覆すコンセプトは、アイドルファンが大なり小なり持ち合わせていた「潜在的な欲求」という波に乗って世の中を席巻した。

 AKB発足時からグループを牽引し、絶対的エースと呼ばれた前田敦子。
 彼女がグループから卒業したのが2012年だが、グループのCD売り上げを紐解くと、そのピークは彼女が卒業後の2013年にリリースされた「さよならクロール」。
 グループとしてのピークを売り上げで安易に図るのは違うかもしれないが、一般的なイメージとして大きな山があったのはこの時期だろうと思う。

 AKB48はこの頃、時代を象徴するアイコンとして様々な媒体に登場していた。

 その代表が、パチンコのモチーフ。

 パチンコメーカーは莫大な資金を持つ。
 その資金を惜しみなく投下し、時にはコンテンツそのもののありようを変えてしまうこともある。

 例えば、最近ではすっかり日本を代表するアニメコンテンツになった「新世紀エヴァンゲリオン」。
 テレビシリーズが放送されてからしばらくは一般的なものではなかったが、2004年にパチンコのモチーフとして登場した遊戯台が12万台以上のヒットを記録。
 莫大な版権使用料が作者の元にもたらされることとなり、より良質なコンテンツへと昇華していった。

 AKB48がモチーフとなったパチンコ台を販売したのは「KYOURAKU」という会社。
 当時のKYOURAKUは「必殺仕事人」シリーズをはじめとするタイアップ機が好調な時期で、ホールには多くの同社製のパチンコ台が設置されていた。

 パチンコ台の好調な売上により、次のコンテンツを呼び込み、それがさらなる売上につながる。
 AKB48がパチンコに登場したのは、その良循環のど真ん中だった。

 パチンコに搭載することを前提に書き下ろされた楽曲も話題を呼び、初代の「重力シンパシー」は約20万台の大ヒットを記録。
 そのヒットを受けて登場した2作目が「バラの儀式」だった。

 本機に登場するメンバーは、AKB48から派生した地方グループからも選抜され、まさにグループの総力を結集した構成だった。
 グループの象徴であった前田敦子こそいないが、彼女の背中を追いかけ、ともに成長したゴールデンメンバーが演じる楽曲は圧巻の一言。
 同グループの代表曲を一つ挙げるとすれば、私は真っ先にこの楽曲を挙げる。そのくらいにこの楽曲は、AKB48というものの全てが凝縮されたものと感じられるのだ。

 最高発売枚数を記録した「さよならクロール」以来、少しずつ減らしていたCD発売枚数は、バラの儀式のリリースを挟んでV字回復。直後にリリースされた「ラブラドールレトリバー」は、センター渡辺麻友の人気も相まって160万枚を超えるヒットを記録。
 メジャーコンテンツの仲間入りをしたAKB48は、業界内外でその地位を不動のものとしていく…

はずだった。

世の中が求める「アイドル像」の変化

 栄華を極めたAKB48だが、公式ライバルとして登場した乃木坂46の台頭もあり、かつての勢いは徐々に弱まっていく。

 決定的だったのは、新型コロナウイルスの流行だった。
 「会いに行けるアイドル」であるはずのAKB48は、世界中を恐怖のどん底に叩き落とした流行り病により翼をもがれ、2020年3月にリリースされた「失恋、ありがとう」から1年半もの間、シングルリリースができない事態へと陥ってしまう。

 身動きが取れない中、彼女たちが立ち向かったのが「根も葉もRumor」という楽曲だった。

 かつてのAKB48は、ダンスのスキルや歌唱力よりも「個人の人気」が先行していた。
 楽曲の制作者、特にプロデュースをされている秋元康先生には大変失礼な言い方で恐縮だが、当時のファンにとって、楽曲のCDは握手券や選抜総選挙の投票権を手に入れるためのもの。
 言葉を選ばずに言えば、「食玩のラムネ」のような存在だった。

 しかし、「バラの儀式」という楽曲が潮目となり、彼女たちの表現力は見違えるほどになった。
 舞台裏の詳しいことはわからないが、パチンコから供給される莫大な資金が投下されることにより、コンテンツが芸術へ昇華していくのは、エヴァンゲリオンの例を見ても明らか。
 かけられる予算が豊富であればあるほど、上質なコンテンツが生み出されるのは自明の理だろう。

 それでも人気が下降していったのは、「ファンやそれ以外の人の目が肥えた」ことに起因するのではないかと思う。

 一因は乃木坂46をはじめとする「坂道グループ」の台頭にもあるが、人気が下降したのはK-POPグループやLDH所属のダンスボーカルグループの隆盛など、「しっかり歌えてしっかり踊れる」グループが登場したことが直接的な原因ではないかと私は感じている。

 積極的にアイドルにお金を使うファンだけではなく、ライトに眺める人たちもが軽い気持ちで「本物」を探すようになった。
 だから、「個人の人気」にもたれたような運営の仕方では、もはや受け入れられなくなってしまったのだと思う。

 「食玩のラムネ」が主役を取り戻す。
 音楽が人の胸を打ち、心を揺り動かすためのものとなる。

 その当たり前を実現するため、AKB48が突きつけられた楽曲こそ「根も葉もRumor」だった。

 グループがこの楽曲を演じこなすまで、通常の何倍もの期間と稽古量を注ぎ込んだとの話もあり、ダンスの基礎から叩き込まれた甲斐もあって、この楽曲を経験したメンバーはその前後で見違えるような表現力を手にしている。
 素人の私が見ても、彼女たちの努力が背中から伝わってくるような感覚を覚えるのだから、それは相当なものだろうと思う。

 「バラの儀式」と「根も葉もRumor」の動画を見比べれば一目瞭然。
 わずか10年足らずの間に、これほどまでにグループのありようは変化を遂げた。
 

グループの集大成「どうしても君が好きだ」

 ダンス全盛の現代と、創成期のノスタルジー。
 両方にリーチした楽曲が、昨年リリースされた。

 バラの儀式を彷彿とさせる、ギターソロが印象的な楽曲。
 そして、AKB48が本来得意とする「青春時代に多くの人が経験する普遍的な風景」を舞台に、現代的で高度なフォーメーションとダンスが展開される。

 私は、AKB48の歴代の楽曲で、この楽曲が最も素晴らしいものと確信している。
 なぜなら、今まで同グループが積み上げてきた経験値が、この楽曲と巡り合うことで余すことなく爆発していたから。

 特に、サビの「踏切の向こうの君に向かって」の部分。
 言葉とメロディーがあまりにもマッチしすぎて、衝動的に胸が熱くなるような感覚が降りてくる。
 あの時代を駆け抜けた自分と、今の若い人たちの時間がクロスオーバーして、同じ景色を観ているような錯覚を覚えるからなのだろう。
 少しだけ、ホッとするようなフレーズに感じるのだ。

 このグループは、一つの山を乗り越えて、素晴らしいところに辿り着いたのだな。

 私はこの楽曲を聴いたときに、素直にそう思った。

 

 ただ惜しまれるのは、センターを務めた本田仁美が、明日をもって卒業してしまうこと。
 天才的なダンススキルと特徴的なボーカル。
 それをもう見られないのかと思うと、それは少し寂しいことだなと感じる。

 と、ここまで書いてみてふと気づく。

 いい歳こいたおっさんが、若い女の子に熱を上げてこんな文章を書いているのは自分としても非常に気持ち悪いことこの上ない(笑)。
 しかし。まあ、今更遅い。
 恥も外聞もかなぐり捨てて、自分のことを客観視することなくもう少しだけ続けたい。

 日本のアイドル産業は世界でも認められているところ。
 遠くヨーロッパのフランスでは、「クールジャパン」というカルチャーが愛されている。
 毎年、「ジャパンエキスポ」というイベントが開かれ、漫画やアニメ、そしてアイドルの多くが彼の地に招かれている。
 最近ではフランスのみならず、世界中でさまざまなコンテンツが広く愛されている。
 誇らしい「メイドインジャパン」であるそれらの姿を見るにつけ、「文化」という目でそういったものを見つめていくことは大切だと思うのだ。

 「たかがアイドル」と片づけるなかれ。

 どんな「文化」も、この10年ほどのアイドルの歴史を紐解けば、必ず活路は見出せるはずだ。
 麻雀がもっとメジャーになっていくために、この道はきっと標になる。私はそれを信じて疑わない。

 変化のスピードは、これからもっと早くなっていく。
 そして、より時間の密度が増した世界を、これからの若者は走り抜けていく。
 きっと、私はその若者に多くを学ばせてもらうのだと思う。
 自分が経験した何倍ものスピードで流れていく世界を、自由に泳いでいく若者たち。
 私には生きられない時間を駆け抜ける彼らを、尊敬以外のどんな思いで見つめられようか。

 古きを訪ねる志は忘れることなく、常に新しいものを先入観にとらわれず見つめて、時間に埋もれることがないようにしたい。

 そんなことを思った朝だった。

(了)

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