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※ネタバレご注意※映画『罪の声』公開。原作と映画が互いに引き上げ合う奇蹟の快作。

※原作、映画共にネタバレを含みますのでくれぐれもご注意ください※
原作と映画の相違点、組み替え部分を中心に書き殴っております。
絶賛しかしていません。
作品に対する感想というよりは、「モノ創りプロフェッショナル集団」(と書いて製作陣と読む)に対しての感動メモnoteです。


作品に対する感想については原作を読了した際のこちらのnoteに。


ちなみに公開初日に興奮のまま投下したツイートはこちら(笑)。
ツイートって最も臨場感ある感想ですね。


▼それでは以下、長い長い独白です。


劇場版は『2018年』の設定で始まりました。
各所で言われていますが、これからの創作はコロナ前とコロナ後のどこに設定を置くのか、そしてコロナがあった世界の話なのか、なかった世界の話なのか、の選択を迫られて行くんだなぁ…と。上映が始まる際ふとそんなことを思った次第。


物語の中で起こる数多の出来事を一片のパズルとし、そのパズルの時系列を少し変え、一部の登場人物の設定を少し変え、最良のタイミングでそれらを地道にズラしていくことによって、劇場版は驚愕の完成度を見せつけます。

もうね…!!この遺伝子組み替え作業(と呼ばせていただく笑。うまい表現が見つからないので)という高度な手法のレベルが凄い…!!半端ない…!!
パズル化したあのたくさんの出来事を厳選し、ちょっとズラすだけでこうなるなんて…思いもしなかった。
私は本気で顎が落ちました。天才の所業を見た。いや、神の領域を見た。

劇場版冒頭、原作と異なる「手帳とテープの見つけ方」を見た瞬間に、私は天を仰ぎました。この手があったか、と。

そしてそこからは、同様の驚愕の連続
幾度も幾度も「この手があったか」を積み重ねられる。
鮮やかなマジックを見せられているみたい。本当に。
私は劇場版、絶賛します。


この遺伝子組み替え手法が最もその威力を発揮したのは、言わずもがな。
阿久津がヨークで辰雄と対峙する場面です。
この場面、原作では阿久津が望と聡一郎の顛末を知らぬまま迎えます。
故に、辰雄もまた、この2人の行く末を知らぬまま終わります。
しかし劇場版では、阿久津がこの事実を正面から辰雄にぶつける
これは、本当に、快挙…!震える…!

と言っても、私も原作を読んだ時点ではそのこと(辰雄が望たちの行く末を知らぬままなこと)をどうとも思うことはなかった。
なかったんだけど!
劇場版を見てこれが一番正しい、人間としての裁きなのではないだろうかと心から思えた。心が揺さぶられました。よくぞやってくれた、という感じ。
原作を読んでいて何かすっきりしない物思いが残ったのは、たぶんこの部分だったんだと映画を観て思い当たることが出来た。

原作では俊也が「辰雄に会いに行こうと思う」、という意思表示のみで締め括られるのですが、劇場版ではそれよりも早いタイミングで、阿久津に託された伝言を通して俊也は辰雄に対峙することが出来、そして「今」を生き「未来」を次の世代へと託す者としての一打を直接浴びせることが出来る。そしてその場面を私たちも目撃出来る。立ち会える。
この一連の変更点にこそ、この作品を映画化した意義があったのではないかと。
私はそう確信してます。


私自身は、原作におけるこの場面で阿久津が辰雄に言い放つ「あなたには正義がない」という台詞がとても好きなのですが、劇場版ではたしかそこも変更になりました。
ずっと公開を待っていた作品の、楽しみにしていた台詞のひとつでもあって、これは変更されることのない一言だとすっかり思い込んでいたのもあり、それが変わったとき、観ているときにとてもハッとした記憶がある。
実際、観終わるまでは「これは絶対メモせなあかん」と思ってたから覚えてた。覚えてたのに。
いかんせん劇場を後にした途端、不思議なほど綺麗に抜け落ちてしまいました(笑)。あー、やっぱもっと早くメモ取ればよかった。
いつまでも気になると思うので、たぶんもう1度劇場に観に行くと思います。

あと、一連の変更により藤嶋くんの登場がなかったのちょっと寂しかったです。原作の彼の役回りがけっこう好きなのです私。


他に組み替えられた場面で印象に残ったのは、辰雄、俊也の母、それぞれの「奮い立った」を告白する順番。
原作では辰雄が先に告白する。劇場版では母の告白が先になった。
このちょっとした組み替えにも私は息を飲みました。
順番変えるだけでこんなにも印象が変わるのか、と。
俊也の母・真由美が先に告白することで「奮い立った」その感覚が、決して辰雄に引き摺り込まれたわけではなく、真由美自身の内側から湧き出たものであり、そしてそれが辰雄と同じものであったことを如実に語りました。
これにより俊也の母の「ある意味本当のラスボス感」が相当増した気が私はします。


このように、映画化で視覚化されたことにより「受け取る印象が大きく変わる」瞬間というのがこの作品には何度か訪れるのですが、辰雄の表情を文章での脳内再生ではなく映像ではっきりと見たときに強く感じたのは、「辰雄もまた生き残ることで拭えない罪の意識を背負い続けているのだな…」ということだった。深淵から顔を出し「ようやく誰かに話せた」のは、もしかするとこの人とて同じだったのかもしれない。
この私の感情は、原作を読んでいた時には感じなかったもの。
映像化され表情を実際に見ることで初めて伝わるものもある。
原作の辰雄はもっともっと空虚で、中身がなかったと私は感じていて。
劇場版の辰雄は原作よりももう少しだけ哀しかった。
そこの視点が覆されたのはむしろ心地の良い揺さぶりだったなと思います。
全体的に、登場人物の中で誰ひとり、「愛を注がれていない者はいない」と感じる。それってやっぱ、これまで拝見してきた野木さんの脚本の揺るがない土台の部分でもあると思う。すべての登場人物に対して愛があるんですよね。


また、原作にはない、劇場版オリジナルの台詞も非常に秀逸な濃さで作品を彩っています。
中でもやっぱり、ソフィーの放つ「Fossil(化石)」という一言。これは強烈に響いた。
私自身は以前、原作感想noteで辰雄を「幽霊」と結論づけたのですが、劇場版制作陣の皆さんは辰雄を「化石」と称したのだ。
ぞくぞくしました。
化石は幽霊と違って「浮かばれることがない」ですね。

この、ソフィーが最後に見せる心情も原作とはかなり違います。
原作のソフィーは辰雄を最後まで愛してる。
でも劇場版のソフィーは、ちょっと違うみたい。
これってもしかして、今のイギリスやヨーロッパ全体の世情が変わったっていうのもあるのかなぁ…と。あまり情勢に詳しくないのであくまでも思いつきっていうか、単なる印象上での感想ですが。
今の時代のイギリスに生きているソフィーにとっては、辰雄がより鮮明に化石に見えて仕方ないのかもな、なんて。
まぁこれはよく知りもしない私の独り言です。


ソフィーや俊也の妻・亜美のように、劇場版は特に「女性登場人物の描き方」がかなり大きく変わっている部分があり、自分的には劇場版の方にとても好感を持てる。
なかでも亜美の描き方が魅力的で、女性目線としてこれはとても嬉しいことでした。
原作にあるような嫁姑問題などは映画で描かれないけど、それで良いのだと思う。この部分をカットしてくださったのはとても心地がよかった。
実際のところホント、私という女性の立場から見て、そっちの問題は些末なことに過ぎない。もし自分だとしたら大切なのは、何か悩んでるっぽい夫のこと、そして娘のことだろうと思うから。
俊也の母とはまた異なる亜美の強さを描くことで、それぞれの魅力も増したように感じます。


劇場版は、ニシダ(仮)の登場する辺りからグッと観る側を惹きつける展開に転がり込むので何としても観ていただきたい…!
ニシダ(仮)役の塩見三省さん誠にお見事でした…!!
怪演とはまさにこのこと…!凄い芝居を見た…。
久しぶりに芝居というものに心が浮き立ってどうしようもなかった。良いものを観せていただきました。ありがとうございました!!


罪の声を劇場で観る意義ってありますか?ともし問われたら、私は「音」を根拠のひとつに挙げると思います。
劇中で、音楽らしい音楽は記憶に残っていない。「音楽」として記憶に残るとしたら、エンディングのテーマ曲「振り子」くらいかもしれない。
その代わり、何が鮮明に記憶と体感に残るかというと、「音楽とは呼べないと思われる音たち」なんです。これは、実際に劇場へ行って、「ハッ…!?!?」と気付いて欲しい(笑)。
人物たちの次第に早くなる鼓動のような音(効果音じゃないんです、音楽の一部なんですおそらく)とか。
音楽じゃないんですよね…ほんと、「音」なんです。でもたぶんサントラなどには音楽として収録されるはず。
すいません、うまく説明できない(笑)。
説明が難しいので、ぜひ行ってみてください(笑)。
たぶん音響設備の整っている劇場で観た方がわかってもらえると思う。
観る側の「鼓動をコントロールする音」たちが随所にあります。ぜひ堪能を。


私の感想って作品の内容どうこうより映像化することによる効果に対する凄さとか、そっち方面ばっかりですね。なんかやっぱ、好きなんですよねえ、創るという作業が。ここはどういう意図を持って創られたか、とか、そういうのを考えるのが楽しい。
私ふだんあんまり映画って観ないので余計に驚いたのかもしれませんが、映像化することで簡略化できる情報が山ほどあるんですよね。
例えば事件の情報を新聞記事にしてバン!とスクリーンに視覚化して出しちゃうことによって、原作何行分もの説明が済んでしまったりする。そういうちょっとしたことが本当に凄いなって。映画づくりって凄いと思いました。
原作のボリュームをわかっているからこそ、かもしれません。


俊也と聡一郎の初接触の場面も、映像化による効果が最大限発揮される場面。演出の勝利。
踏み台に乗る足だけの映像、背後にうっすらと首吊りロープが映るアングル。
ただそれだけで、聡一郎の「追い詰められた今」を説明できてしまう。これぞ映像の力。
この場面も劇場版オリジナルですが、MIU404で言うところの、「間に合った」瞬間を描いた重要なスイッチシーンです。
志摩だった俊也が間に合った瞬間でした(笑)。
なんかちょっと、違う意味でも胸が熱くなりました。


他にも、「原作では伏せられていたシーンが劇場版で描かれた」というものもあって。
望が殺されるシーンは、原作ではぼんやりと伏せられ、はっきりした死因はわかっていません。しかし劇場版ではそこがはっきりと描かれ、描かれたことによってリアリティと、重さと、そして観る側にも怒りを植え付けたと私は思います。突きつけられることによって、これらの所業を決して許してはならない、と、より強く思える。
思わず目を背けた瞬間だったけど(劇場内の周りの席でも、何人もの方の首がその瞬間横を向いた気配を感じた)、けどこれを目撃したことは阿久津と共に真実を追ってきた結果だった。これまで目を背けなかった価値があったのではないでしょうか。

原作の、阿久津の元に重要な郵便物が届くシーンと、中華屋での説得シーンが個人的にはすごく好きで、これらのシーンは逆に劇場版では葬られてしまい残念だったものもやっぱりあるにはある。
あるんだけど、それでも劇場版の組み替え、変更、すべてにおいてパーフェクトだったと思います。まったく異存はない。満点です。
(ちなみに中華屋のシーンは原作読みながら最も泣けたシーン。ぜひ原作で読んでみていただけたら。原作の展開だからこそ、の泣きどころなのです、ぜひ)


35年前を演じた役者陣の皆さんが、一様に美しくて印象に残った。惚れ惚れとしました。
特に、若かりし頃の辰雄。彼は壮絶に美しい人でしたねえ…。役者さんが気になりますね。川口覚さんだそうです。覚えておきたい。

アンナチュラルで猟奇連続殺人犯を演じた尾上寛之さんが演じた光雄もまた、瞳のキラキラが半端なかった…!!キラッキラしてたよ…!!
辰雄は綺麗だけどキラキラはしてない。映画はこんな違いまでも表現出来てしまう。

余談なんですが、昔の人の写真とか見て、みんな美形でびっくりすることってないですか?
映画だからとかではなくて、昔の人って実際にも本当に美しい人が多いと自分は感じるんですよね…。あれ、何なんでしょうね?何がそうさせるんだろう。
かつての人たちが持っている、信念の強さ?使命の光?
昔の人たちって、「こうありなさい」という縛りもあって、自分の思うようにはなかなか生きられない人も多かったように思うんだけど。少なくとも現代ほどの自由は無いような。
けど、それによって逆に選択肢が少なく、ひとりひとりの生きる道とか、自分はこうあるべきという像が早くから強固なのかもしれない。あの美貌はそういう強さの輝きなんだろうか。どうなんだろう。
今を生きる私たちも、何十年後かに見た人が美しいと感じてくれるんだろうか。私たちはそこまで輝いて今を生きているかな。


カセットテープに収録されている幼少期の俊也の歌が、「僕笑っちゃいます」から「もしも明日が」に変更されているのにも、もしかすると意味があるのかなって思ってます。
もしも明日がの歌詞を読むと、なんとなく意図的にこれになったのかな、と。良い歌詞です。


原作では、長丁場な取材の過酷さに阿久津がどんどん疲労してけっこうボロボロになるんです。
劇場版ではそのハードワークっぷりの表現を「スーツの袖の取れかかったボタン」で表現しました。いやもう…さすがっす…。削ったシーンを何かの形で入れてくる。
その取れかけのボタンに気が付くのが「テーラーの俊也」であることも。うまいよなぁ…。確かに俊也なら、それにきっと気付くはずなので。
で、そのボタンを何の躊躇もなく引き千切ってお終い、な阿久津も面白いなと思う(笑)。
阿久津くん、モテそうだけどな。自分のことにはちょいダメなところが女心をくすぐるのではないかと。(だめなやつ)
ただ、その後の曽根夫妻の愛情の機微がわかんないとこ見て、あ、やっぱモテないわね、って思った(笑)。
私に言われたくないだろうけど。


原作との違い、印象的な変更点としてもうひとつ大きな大きな転換部分がある。
それは、聡一郎に「もう逃げる必要はない」と話しかけるのが俊也ではなく、劇場版では阿久津であること。まさか告げる内容は同じで話し手が変わるとは。その発想も私にはなかった。
この場面は、映画鑑賞後に帰宅し、原作を読み返した時に気付いた部分だったので、改めて鳥肌が立ちました。
確かにこの場面、原作を読んでいた当初は若干の違和感を覚えていた記憶があるんです。俊也がこれを、言うかなぁ…と。劇場版で組み替えられた「流れ」が、小さな違和感という針穴を塞いでくれたように思う。
とは言え原作では俊也がこれを言うことで、俊也なりの蹴りをつける意思表示だったことも確かで。
そこの部分はその後に阿久津が言った「罪の意識を抱くべきはあなたじゃない」という劇場版オリジナルの秀逸な台詞を受けて、俊也が逡巡しながらも力強く「はい…!」と答える姿に。そこへ凝縮されたように感じます。
この俊也の力強い「はい」には私も救われたというか、すごくホッとした。


時系列の変更点はこの劇場版の肝というか、本当に観れば観るほど、原作を読めば読むほどに唸らされる。
特に11月14日にすべてを集約させた変更は圧巻としか言いようがない。
これをそうするだけで、こんなにも纏まって、上映時間という限られた時間内で多くを語ることが出来る。映画っていったい何なんだ…。凄いとしか…。まるで魔法だよ、ホントに。この作品の製作陣は魔法使いの集合体だと思った。

錚々たる役者陣の怪演も然り。
梶芽衣子さんの最も重要な台詞「奮い立った」の言い回し。ほんの少しの「間」にグッとくる。
登場人物ひとりひとりの息づかい、眼差し、指の動きひとつにも。役者さんたちが注いだ魂が宿ってる。
見所を挙げるとキリがない。初見だけでは見落としてるものも多いに違いないと思わずにいられないです。


原作同様、映画にもとあるシーンで「素数」という単語が出てくる。
MIU404ファンにはちょっとアンテナに引っかかる単語かも(笑)。「一未」と「藍」の名前の由来に関わっている単語ですね。
(「一に満たない」と「虚数のi」がある朝トレンド入りし、数学クラスタなどの間でひと騒動あったアレです(笑)まぁそれはさておき)

数学と縁がない自分は素数ってものが1ミリもわからないので、この時のトレンド入りをきっかけに素数について少し検索をかけたりしていました。
その時、素数に関連したサイトで偶然見た一文に「正しさを分かち合えることが喜び」っていう。そういうのがあったんですよね。なんか素敵な言葉だな、と思いメモしてありまして。
私は罪の声の根底にも、この喜びが漂っているんじゃないかなって。そんな気が今はしています。
阿久津と俊也が出会い、地道に事実を積み上げた末に彼らは正しさを見出した。そしてそれを分かち合った。映画を観ている自分たちも巻き込んで。
映画を観終わった後にうっすらと自分の手のひらに残っている「希望」を掴んだような感触って、まさにその喜びを分かち合った時の感触だったんじゃないかと。そんなことをちょっと考えてた。

その分かち合える瞬間を増やしていけたら、もしかすると今危ぶまれている子どもの未来も守っていけるんじゃないでしょうかね。
正しくないものにだけ目を奪われ、それに心を明け渡す必要は全然ない。
辰雄と光雄という曽根兄弟の運命を分けたものもそこにあったのかもしれない。


それはそうと、パンフレットは絶対に購入をおすすめします。
罪の声のパンフ、袋とじ企画があるんですよ。
珍しくないですか?(私は初めてでした)
子ども時代の聡一郎役を演じた石澤柊斗くんがガチ泣きしたエピソードとか(笑)、脚本の野木さんが意図せず涙したシーンだとか。裏話が満載。
それと、各役者さんのごあいさつ文がものすごい読みごたえあるんです。
土井監督インタビューの、「あるもの」を僕らは描けない、というお話にもハッとさせられる。
「あるもの」に関しては詳しく書けないので読んでみてほしい…。隅から隅までぐいぐい読めるパンフです。
表紙になっているメインビジュアルに、よく見ると台詞が散りばめられており、作品を見終わった後にこそ、そのひとつひとつが真に迫ってくると思います。パンフレットまで満点だった。


✴︎


と、いうわけで。

さすがにこのnoteを最後までご覧になっている方はいないんじゃないかと思っているのですが(笑)。
もしいらっしゃったら本当にありがとうございました。

とにかく映画の仕掛けが緻密だったので、ひとつも取りこぼしたくなくて気が付いたことは全部書いた結果こうなりました。
それでもきっとまだ、取りこぼしてるんだろうと思います。
早く2回目、観に行きたいです(笑)。


最後に、単行本版原作の帯にあるとある一文を。

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「家族に時効はない」
生き延びた生島母子にもそれはなかったですね。
どうか幸せに。




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