北海道ゆかりの人たち第二十五位 サラ・クララ・スミス
1851年(嘉永4年)~1947年(昭和22年)
ニューヨーク州生まれ
キリスト教プロテスタント系の伝道師及び教育者。
1887年(明治20年)、札幌でスミス女学校を開設。
その後「北星女学校」に改称。
開拓使長官黒田清隆は、開拓10年計画のひとつに人材教育を打ち立てます。
特に女子教育に力を注ごうと、東京に開拓使仮学校に女子部を設置しました。
明治8年、札幌に移されイギリス人の女教師によって36人の生徒が教育されましたが早すぎるとして廃校となります。
明治20年、クララ・スミスによって初めて女子中等教育の門が開かれました。
生い立ち
1851年、ニューヨーク州で実業家の娘として生まれました。
高校を卒業後、3年にわたってフランス・ドイツに留学し、その後は教師として活躍。ところが、牧師になったばかりの兄が亡くなったことがきっかけで、兄の遺志を継ごうと宣教師になることを決意。
明治13年、婦人伝道局から東京築地の新栄女学校、現在の東京女子学院へ赴任の要請があり、これに応じて来日します。スミス29歳でした。
それから3年、業績が認められて校長に就任しましたが、湿気の多い東京の風土に馴染めず、重いリュウマチを患います。
「すぐにアメリカに帰らなければ死にます」と医師に宣告されますが、すでに宣教師になった段階で、一命を捧げて日本のために尽くすと決めていました。
そこで、気候が故郷に最も似た乾燥地が北海道であることを知り静養にやってきます。
新渡戸稲造
当時の札幌には、クラーク博士の教えを受けた佐藤昌介(北大の初代校長)や新渡戸稲造がおり、彼らは札幌で女子教育を始めることを進めます。
スミスは伝道局に報告し支持を仰ぎますが大反対。医師からの帰国があることと、札幌は人口が少ないので伝道に適さないという判断でした。
スミスはいったん函館に行き、ミッションスクールとして開校していた遺愛女学校で、昼は学生に、夜は一般人に、英語・家事・聖書などを教え、時が来るのを待ちます。
この遺愛女学校は、開拓使女学校を除き、北海道女子教育の発祥でもあります。
明治19年、36歳の時。札幌師範学校から英語の教師にとの依頼を受け、スミスは塾を開くことを条件に応じます。
当時の北海道庁官岩村通俊は、スミスの熱心さに動かされ自分の厩舎、馬小屋を提供します。二階を生徒の寄宿舎、一階を教室として授業を始めます。
明治20年、これが北星学園の前身、スミス塾でした。
函館から連れてきた7人の女学生の他、通学生が加わりいつも一杯でした。
しかし、アメリカの伝道局からの金銭援助がなく、師範学校でもらう給料すべてを生徒たちのために使います。こうした活動が岩村の耳に届くと、外国人教師として貸し出していた住宅の隣に、新たに二階建ての教室兼寄宿舎を建て貸与し、自分の妻子の教育をスミスにゆだねました。
更に、佐藤昌介や新渡戸稲造、宮部金吾らが講師になって助けたため、生徒は予想以上に集まり明治20年のうちに46人に達します。これが、札幌における女子中等教育の初めとされています。
明治21年には、アメリカの伝道局は援助をはじめます。これによって校舎を増築することができたため幼稚園を併設しました。これは明治27年までしか続きませんでしたが札幌の幼稚園の草分けとなりました。
明治27年には校舎の貸与期間が切れるので、アメリカにさらなる援助を訴え、北4条1丁目に900坪の土地と建物を買収し8月に独立校舎が完成。
スミスは44歳。
新渡戸稲造がこの学校を「北星学園」と命名。
これが北星の由来です。
大正13年、73歳の時に現在の女子短大・女子校・中学校のある南5条西17丁目に、6000坪の広大な敷地を買収し、昭和5年には木造3階建ての校舎・寄宿舎・教師館が完成。
スミスの教育は徹底したものでした。
国語・漢文・代数・幾何・図画・修身などの高等普通学科をおき、更に英語においては、英書購読・英文話法・英会話・英字作文のほか、英文の地理・歴史などがあり、当時東京の津田塾の学生よりも優れた学生が多いと評判になりました。
昭和6年、すでに80歳。すべての人たちが日本への永住を願っていたにもかかわらず、カリフォルアの引退宣教師の住宅に帰っていきました。
50年の奉仕を終えて帰国したスミスは、来日した時と同じ服を着ていたといいます。誰も待つ者のいないアメリカに帰ったのは、愛する北星の人たちに自分のことで迷惑をかけたくないという、謙虚な気持ちからでした。
昭和22年、96歳をもって静かに亡くなりました。
札幌市の花・ライラックは明治23年にスミスが故郷から持ち帰った花です。
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