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観光客が行かない伊達巡り・前編

歴史街道 (北の湘南・伊達市)

ニシン漁で賑わった江差(えさし)町や寿都(すっつ)町に「いにしえ街道」という商店街があります。国土交通省の北海道開発局が歴史的建造物や史跡・旧跡を残しながら、そこに住んでいる人が、それらと調和するように建物の修復や電柱の埋設を行い「歴史ある街並み」として観光に一翼を担っているものです。

黒い郵便ポスト

1998年(平成10年)、伊達市に「歴史街道」が作られたと報道がありました。26年も前のことですが、面白そうなので出かけたことがあります。
このような街並みは北海道では初めての試みでした。伊達市役所の東側にある商店や銀行などを、城下町風に白壁と瓦(かわら)屋根(やね)で統一していました。
そうして、この景観にあわせて瓦屋根を模し黒色に塗られた郵便ポストが2基ありました。この黒いポストから手紙を出すことができるのですが、設置を郵政省が認めるまで4年の歳月を要したといいます。

観光客が行かない北の湘南伊達市の旅

伊達市は内浦湾(うちうらわん)に面し、比較的温暖な気候であるため「北の湘南」の異名を持ちます。寒冷な北海道にあって、内浦湾や洞爺湖といった自然に恵まれ温暖な町だからです。
キンキ飯寿司、ホタテなどの海の幸も名産で、牧場では乳搾り、アイスクリームやバター作りなども体験できます。毎年8月には「伊達武者まつり」が開かれ、開拓の歴史を物語ります。


伊達邦成

伊達市は仙台藩の亘理わたり伊達家が、明治維新に家臣たちとともに集団で移住した町です。戊辰戦争で敗れ朝敵とされた伊達一門の領主たちは大幅に減封になります。亘理領は2万4千石から58石に削られ、領地は南部藩支配となり帰農すれば刀は持てません。
1,360戸、7,800人の領民を食べさせていくことはとうてい無理。
北海道の未開拓地を領地として与えるという、政府の提言に願い出るしか生きるすべがなく、しかも政府の支援は一切ありませんでした。
亘理領主伊達邦成は家老の提言を受け、北海道開拓の願いを太政官に提出。そうして与えられた土地が現在の有珠郡でした。

明治2年10月、家老田村顕允(あきまさ)が先発し、その後邦成は陸路青森を経由し有珠に着き視察を行いました。第一陣の移住者220人は家を処分して資金にし、邦成も書画、茶器、家具や文房具、弓や銃、刀剣まで売却します。
有珠に到着して有珠郡支配所の開所式が開かれ、邦成からの直書が公布されます(邦成は同行しておりません)。
アイヌ民族に対して、1、欺き偽り玩弄すべからざる事 1、みだりに出入り相難成事 邦成が先住者に対して心を砕いていたかがわかります。
第二陣は到着が遅れたため開墾もできません。更に、この年は収穫も少なく、大根と薯だけの苦しい日々でした。

貞操院

第三陣で伊達邦成は現地に赴くことにしました。その時、義母の貞操院(ていそういん)保子も同行すると述べます。
貞操院(1827―1904)は天璋院篤姫(1836―83)と同時代を生きた仙台藩最後の姫君です。これには人々は感激し移住者は700人に達しました。保子は粗末な家で起居し、家々を回って励まし、桃の節句には花嫁道具に持参した雛人形を飾り、甘酒を振舞ったといいます。江戸の大奥「篤姫」と良く比べられる姫です。
移住は、明治14年まで9回にわたり続き、合計2,651人が移住。こうして新しい町、伊達市が誕生しました。

貞操院が持参した雛人形については下記を開いてください。


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