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編集担当Xの拾い読み(2023/4)

*仕事で読んだ本のメモです

宮下遼『多元性の都市イスタンブル』(大阪大学出版会 2018年)

序章 イスタンブル人たちがイスタンブルがかつて「世界の中心」だったことを忘れられないでいる憂愁。
1章 イスタンブルという特別な都市へのアプローチについて文学資料の活用を提言。
2章 世界の中心近世イスタンブルの空想ツアー。ランドマークもショッピングも食事もするするイメージできて最高!地球の歩き方+歴史小説を頭に流し込んだ感じ。
3章 イスタンブルを理想化する都市頌歌の分析。神秘主義詩を踏まえた歓楽街ガラタの賞賛とか、知識がないとおもしろくない詩がわかるようになるのはおもしろい。
4章 下郎の酒場と珈琲店、選良のサロン(メジリス)。庶民への蔑視と嘲笑に満ちた詩の数々が選良たる詩人の単純な差別意識ではなく文脈の違い、描き分けの結果という指摘はほかの文学研究にも応用できそう。
5章 旅行家で庶民派なエヴリヤ・チェレビーが記録する帝都の数々の奇跡・不思議譚と、その背景にある異教の遺物。本題ではないけれど、チェレビーが見聞きした冗談を集めた「冗談の書」、読んでみたい。
6章 フランス大使ダラモン男爵一行の見たイスタンブル。異文化を求めたり古代ギリシア・ローマの面影を求めたりという西洋人の反応がおもしろい。トルコ人をトンデモ言語学で「呪われた人々」と結論する東洋学者ポステルとか、奴隷市場を目の前にして「古のテオドシウス広場である」とだけ書く人文学者ギリウスとか。
終章 オスマン帝国からトルコ共和国への変化に伴う文学の変化。「古の都市の声の多重層」というのはイスタンブルの魅力を言い当てている。
(A5判・436頁)

今田絵里香『「少女」の社会史』(新装版)(勁草書房 2022(初版2007))

はしがき 建前では「少年」とされるが実際には「少年」ではないものとされる「少女」の意味内容と歴史的変遷を子ども向け雑誌(とくに『少女の友』の分析)によって明らかにする。
序章 「少女」が家父長制への抵抗なのかそれの補強なのかという先行の議論は単純すぎるので、どのような形で抵抗となり得どのような形で補強となり得るのかを歴史的変遷と社会的背景を明らかにしながら見ていくとのこと。なるほど。『少女の友』創刊時の定価は10銭、かけそばは3銭。少女歌劇団と外国スターの記事と高等女学校が舞台の小説(清いシスター関係)が特徴的な高級モダン路線。
1章 日本初全国的子ども雑誌『穎才(えいさい)新誌』の分析。定価はかけそば1杯(8厘)。男女読者ともに学問による立身出世主義を投稿→別学・別カリキュラム化と女性投稿者減少の流れが整理されていてためになる。
2章 少年少女雑誌の表紙絵の変遷の分析。少年は一貫して国家に有用な存在(平時の勉強・芸術、戦時のスポーツ・労働・戦闘)として描かれるが、少女が国家に有用な存在(労働・戦闘)と描かれるのは総力戦体制になってからだけ。それ以前にも良妻賢母(家事労働)として描かれることもほぼなかった。
3章 掲載小説の分析。母親が良妻賢母として慈愛深く他人に尽くす存在とされるようになったからこそ服従と家事労働から解放された「少女」が成立したとのこと。
4章 (『少女俱楽部』を除いて)少女雑誌が「スター」と「芸術家」を理想/憧れの女性としたことについて。高学歴→官公庁という少年の「教育主義」と、芸術的才能を磨いて「スター」「芸術家」として成功するという少女の「芸術主義」の類似と相違。(大量の資本を投下すれば)女性でも(女流として)「スター」「芸術家」にはなれる(が官公庁には入れない)ので、多くの少女が憧れる(が挫折し、自分に才能がないと納得して結婚する)という分析は読んでいて切ない。
5章 読者投稿欄の分析。編集者(内山基)と読者の少女、国家の相互影響。共有されるアイデンティティが「醜悪な大人」と対比される「清純な少女」から総力戦体制下に「国民という自覚のある少女」(「それの欠如した大人」と対比される)へ変化する。どちらも反抗を含むが社会の脅威にはならない。
6章 友情小説の「エス」関係では手紙交換が非常に重要。基本は上級生(お姉さま)と下級生のカップルだが同級生間もあり。互いに相手を唯一無二の存在として永続的に全受容するのがルール。清純主義、家族の抑圧から友人によって解放されるという筋立て、男性嫌悪、結婚拒否。エスは現実にも読者ネットワークを通じて存在した。現代の「百合」みたいなのかと思っていたがだいぶ違っていておもしろかった。
終章 議論のまとめ。「少女」表象の一貫性のなさ。
あとがき 戦後に「少女」は大衆化によって魅力を失ったのではないかという推測。
(A5判・272頁)