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編集担当Xの拾い読み(2023/6)

*仕事で読んだ本のメモです

井上暁子編『東欧文学の多言語的トポス』(水声社 2020)

編者まえがき
科研基盤Bの助成を受けたシンポジウムの報告に加筆・修正を加えた論文集。「東欧」「中欧」「中東欧」について。作家たちによって「中間性」を強調する「中欧アイデンティティ」の試みと、商業的な「中欧」イメージ、難民の流入を背景にしたナショナリズムの高まり。多様性の価値観は失われつつある。東欧とその外部(各言語圏の「中心」)の関係(横のつながり)の重なり合いによる「文化的ダイナミズム」において言語がどのような働きをしているのかを、「求心力」と「遠心力」をキーワードに明らかにする。
三谷研爾 ボヘミアとプラハのあいだ
「プラハのドイツ(語)文学」の意味付け、妥当性を問う。
1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立すると、プラハはボヘミアのドイツ人とチェコ人のナショナリズムの主戦場となる。言語政策での対立は襲撃略奪にまで発展した。ドイツ系ブルジョアはゲーテを頂点とするドイツ文学理解を受け入れナショナリズムを強化したが、1870年代以降に生まれた息子世代(リルケ、カフカ、ヴェルフェルなど)はこれに反発し、汎ヨーロッパ的な新しい芸術潮流に呼応した。1939年以降のナチスドイツによるユダヤ人社会の破壊と第二次世界大戦後の再興チェコスロヴァキアからドイツ系住民が追放されたことで、ボヘミアの多言語的な社会環境が失われた。
 「プラハのドイツ文学」という用語が確立されたのは、冷戦中にゴルトシュテカーが開催した1956年の国際研究集会においてである。この会議でゴルトシュテカーは、「プラハのドイツ文学」という現象は1894年(リルケの『いのちと歌』)を上限とし1939年(ナチスドイツによるプラハ占領)を下限とするとしたうえで、30名余りを列挙し、これらの作家が輩出したのは「三重のゲットー」(周囲のチェコ社会から隔絶され、中上層のブルジョアで、ユダヤ系であるという環境)という閉塞環境によると論じた。
 この「プラハのドイツ文学」論は、ヴァインベルクとクラップマンによって以下のように批判される。プラハという都市で世界的な文学が登場したのに対してボヘミア外縁部(ズデーテン地方)では守旧的な(ナショナリズムと反ユダヤ主義)文学しか生まれなかった、という「プラハのドイツ文学」の図式は、文学に内在する議論ではなく歴史・政治認識によるものである。「プラハのドイツ文学」は地方のドイツ国粋主義に対置して仮構されたもので、プラハの作家たちが共有していたとされるヒューマニズムは、ほとんど内実のないブラックボックスである。地方出身のドイツ系青年によるナショナリズムに貫かれた文学をも議論の俎上に載せなければならない。中心/周縁の対立図式によらない理解モデルの構築のため、具体的事例を検証しなければならない。以上の論の状況証拠をヴァインベルクとクラップマンはいくつか挙げている。カフカが雑誌Kunstwartを定期購読していたこと、カフカが1910年1月のブロートの講演で当代の重要な小説家として挙げた中に今日では忘れられている郷土小説や山岳小説の書き手が多く含まれていること、など。
 また、ヴァインベルクとクラップマンは、従来の地域文学史(「血と大地」イデオロギーに接近したアルザス文学史など)が同質性を暗黙の前提としたことをふまえて、地域の異質性を強調し、地域内の交流プロセスと他の地域とのコミュニケーション過程(一般読者をターゲットにした書籍出版ネットワークと、専門家間での学知の共有と人的交流)に目を向けるアプローチをとる。
阿部賢一 ボヘミアにおける文学史の系譜
ボヘミアの文学史ではチェコ語文学とドイツ語文学は並行する別個の現象として並列的に扱われてきた。ここではとくにチェコ構造主義の文学史(とくにフェリクス・ヴォジチカによる問題系)に注目する。
 プラハ学派の文芸理論はテーヌの社会学的な視点、フォルマリズム(伝達機能と美的機能の峻別)の機能、現象学(読書行為によって作品が現実化する「具体化」)の手法を評価する(「言語」を単位として重視し「民族/種族」で文学を語ることは疑う)。
 ヴォジチカの提起する三つの問題系:1 歴史的な連なりの記述(作品の羅列ではなく文学的な諸要素の動的な発展の観点から作品を特徴づけること)。2 テクストの生成の探求(詩人/作品と歴史的現実の関係の再建。例:作品内での社会描写と現実の社会の関係)。3 文学的諸価値の変容(読者による受容/反響)の探求。
 ヴォジチカの実践。彼自身の文学史を考察するとき、テクストと歴史的環境の関係として、ザウアー、ナードラーと言うナチズムに通じる血統主義的な手法が同時代に進行していたのにもかかわらず黙殺されているのは注目に値する。
藤田恭子 「周縁」とカノン
ブコヴィナのユダヤ系ドイツ語詩人(パウル・ツェランがもっとも著名)のメンターとされる3名(アルフレート・マルグル=シュペルバー、モーゼス・ローゼンクランツ、アルフレート・キットナー)がドイツ語詩人として自らの活動をどうとらえていたか、「ドイツ文学」のカノン(=ゲーテ)に注目して論じる。
 ブコヴィナの帰属をめぐる複雑な歴史とユダヤ系住民の多重的周縁化。トランスニストリア地域へのユダヤ系住民の移送(死亡率は非常に高かった)はユダヤ系詩人たちの人生に決定的な傷を与えた。第二次世界大戦後、ブコヴィナは南北に分断され(北部はソ連ウクライナ領、南部はルーマニア領)、ユダヤ系住民の多数が故郷を離れた。
 マルグル=シュペルヴァーは1930年代前半の講演原稿で、自分たちの文学は「四重の悲劇」に苦悩していると記す(1 妻が「この帽子を買って、まるで詩みたいだから」と夫に頼むと「このご時世に誰が詩を買うんだい?」と夫が答えるという冗談があるような時代、2 非ユダヤ人がユダヤ人と一切関わりを持とうとせず、ユダヤ人はユダヤの詩のほかに心配事がある状況、3 ユダヤ系詩人にドイツ語で詩作する資格を認めない時代、4 読者もいない、出版社もない、雑誌もない、法廷の報告とたわいないことばかりの日刊紙しかない「ブコヴィナ」という辺境)。
 ブコヴィナのユダヤ系ドイツ語詩人たちは私家版として相次いで詩集を刊行した。マルグル=シュペルバーは『風景という比喩』で主題をブコヴィナの風景に限定し、現代詩から距離を取ることを宣言する。その理由は、「原像 das Urbild」(=ゲーテが啓示したような根源的世界としての自然)に詩人が到達することは不可能なので、「この対象に接する体験の真正さと強さ」「感受性をもった読者の魂のなかでこの体験が繰り返されるよう働きかける能力」が唯一の芸術家性の尺度であるからだ、という。
 ローゼンクランツはマルグル=シュペルバーをゲーテを中心とするドイツ語詩人の正統な系譜に連なるものとし、自身もゲーテに傾倒した。キットナーもローゼンクランツも、ゲーテをナチズムに抵抗する自由な抵抗の言葉として信頼し続けた(アドルノなどの戦後ドイツに強い影響を与えた左派知識人のようにドイツ文化全体を疑うことはなかった)。また、彼らはディアスポラにおいても、評価されないことに苦しみながらも、韻律などの伝統的詩形式を重視し続けた。
越野剛 ロシア極東とベラルーシにおける中華街のイメージの比較と流通
ロシア文化の中心部から離れた周縁において中国という異文化がどのように想像されているのかを考察する。具体的にはウラジオストクのムトフチイスカヤとベラルーシのマルツィノヴィチという二人の作家の作品をとりあげる。
 ロシアにおける中国イメージの変遷:19世紀 西欧派は中国の後進性を批判、スラヴ派は中国独自の伝統文化を評価。20世紀 中ソ対立の時期には中国は否定的なイメージを帯びるが、中国批判の大義名分のもとでソ連の似たような体制を暗に批判するということもあった。2000年代 中国とロシアが一体化した架空のユーラシア帝国のイメージが生み出されると同時に、中国人移民への不安感を取り込む作品も見られた。
 
ムトフチイスカヤは大半の作品を文学サイトproza.ruで発表し、電子書籍で販売しているが、『ミリオンカ、シー』(日露戦争直後のウラジオストクを舞台にした中国系、朝鮮系、日本人、ロシア人の子どもたちの冒険小説)は紙媒体で出版されている。マルツィノヴィチは現代ベラルーシ文学を代表する作家。『墨瓦(モーヴァ)』はロシアと中国の連合国家によって支配された固有の言語と文化を失った近未来のベラルーシで、ベラルーシ語の文学テクストの断片(「モーヴァ」)が麻薬的な快楽をもたらすものとして中華街「シャンハイ」で密かに取引されているという話。
 二つの作品において中華街はステレオタイプ的なエキゾチズムで描写される。(漢字、神秘性、祝祭、食品、暴力、エロス)
『ミリオンカ、シー』では中華街の地下に渤海国の秘密都市があるという設定で、ウラジオストクを支配してきた渤海、中国、ロシアという国の変遷が空間に反映されている。『墨瓦』では、社会主義リアリズムの建物が新たに建設された古都ニャミーハの上部にさらに中華街が建設され、古い町並みが反体制グループの隠れ家になっているという設定で、ベラルーシ語がロシア語に吸収され、ロシア語が中国語の影響を受けているという作品内の言語の力関係が空間に反映されている。
 『ミリオンカ、シー』『墨瓦』の両方では多様な人々の文化的な真正性が都市の最下層で確保されており(古代渤海人の血筋、「ベラルーシ人」だけに作用するベラルーシ語)、人種主義や(一つの国民の文学は一つの言語によって書かれるという)国民文学論の危険がある。
井上暁子 文学作品と流通をめぐる政治と文化の力学
体制転換後のポーランド語圏で「複合的アイデンティティ」を辺境地域のアイデンティティとして描く作品が多くなったが、1990年以前の作品にも複合的アイデンティティが見られる。本稿では『亜鉛は金になる』(1937)と『ヨアンナ坑』(1950)を取り上げる(いずれも上シレジアゆかりの産業王カール・ゴドゥラとその養女ヨアンナを題材とする)。その際、精霊、鉄道、多言語性という言語・文化圏をまたぐ題材に着目する。
 ハンス・ノヴァク、ゲオルグ・ツィヴィア『亜鉛は金になる』は、19世紀上シレジアの産業化を「発展と栄華の物語」として描写し、革命運動などの微妙な点はうやむやにする。水害の描写では、上シレジアはヨーロッパの辺境ではなく多言語の飛び交う「大交差点」とされる。鉄道の描写は産業化と結びつくときは写実的だが冒険と結びつくときはロマン主義的。精霊についてはポーランド人鉱夫/農民の空想とされるが、憧れもまざっている。鉱夫の遺児ヨアンナはゴドゥラの養女となり西ヨーロッパの教養を身に着けシレジアの名門貴族と結婚する。ヨアンナはシレジアの多元性を体現する。
 本作の出版、流通について。ナチスドイツの政権掌握から4年後の1937年に出版。初版を出版したコルン社の人事部長はナチス党の共鳴者に変えられ、「地域色」の強いものを重視する方針になった。本書の編集責任者フライシャーは、「上シレジアの読者の需要」と「ドイツ第三帝国の読者の需要」が異なることを意識し、宣伝の仕方も変えた。初版刊行前には特別版が上シレジアのシュラフゴッチュ鉱山の全従業員に贈呈された。初版5000部刊行、第2版5000部刊行。1938年半ばの再版に際しては、まず作家ノヴァク、主人公ゴドゥラの伝記についての興味を喚起し、次にシレジア出身ドイツ語作家に書評を書かせてシレジアの社会文化史への興味を喚起するという販売戦略を取り、その結果ドイツ各地の地方紙に掲載され、ベルリンの書籍クラブから8000部が刊行された。この成功により、コルン社はドイツ帝国有数の出版社となり、シュレージエン文学の地位も向上した。
 『ヨアンナ坑』(1950)は『亜鉛は金になる』よりもロマン主義的であり炭鉱の精霊(「シャルレイ」など)が主要登場人物となる。本作において大地の精霊は国境も世代も超える存在である。機関車も怪物にたとえられ、精霊に近づけられている。炭鉱専門用語と方言が注釈なしに用いられ、アルノルド鉱床がバベルの塔として描写される。劣るものとされていたシレジア方言を標準ポーランド語と同等のものとして描くことは政治的な課題だった。
 後進地域であるという上シレジアの旧来のイメージは以上のような力学によって変化している。

(感想:知らないことが多くて全体を整理しながら頭に内容を入れるのが大変だった。自分の受けた文学史教育の地域的偏りを思い知らされる。「プラハのドイツ文学」用語批判のような批判は色々な分野でも当てはまりそう。個々の作家や思想家をどういう集団としてまとめるのか、まとめられないのか。個々の作品分析を読むと、時代性と地域性を強烈に感じた。たとえばこの時代のユダヤ系ドイツ語詩人たちの残したような作品をまた作ろうとしてもできないだろう。ナチスドイツの出版戦略、極東ロシアにおける中国の影響力というのも気になるテーマ。)