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編集担当Xの拾い読み(2023/5)

藤本大士『医学とキリスト教』(法政大学出版局 2021年)

序章 先行研究で包括的な研究がないので、医学史とミッション史両方の観点から、幕末ーアジア・太平洋戦争後までに来日したアメリカ人医療宣教師を教派にかかわらず宣教看護婦も含めて網羅的に取り上げる方法をとる。すごい。
1章 幕末期。シモンズみたいに宣教よりも医学の普及に関心があった宣教師もいたのは意外。
2章 1870年代。アメリカ人医療宣教師は公立の医学校・病院にはあまり関わらなかったが医学生たちが臨床を学ぶために医療宣教師たちの塾や診療所に来ていたとのこと。医学教育の多様性が興味深い。教理は腑に落ちないけど先進国の欧米の人が信じているから自分も信じてみよう、という入信理由の一例は、この時期の信徒の増加をわりと説明できている気がする。
3章 1880年代ー1890年代。新島襄とベリーの同志社医学校構想で宗教・道徳教育が重視され、同志社病院などのミッション病院で災害医療が実施されたのが興味深い。著者が言うように、医学を手段としたキリスト教の布教ではなくて、キリスト教精神にもとづいた医療の実践(と実践者の養成)が目的になっている。
4章 1880年代半ばから男性による医療宣教は低迷したが、1880年代から1890年代にかけて来日した医療宣教師の半数は女性。先行研究では女性医療宣教師は大きな成果を残せなかったとするが、この時期の8人の女性宣教師に注目することで総合的に分析する。日本人の身元引受人を得たり日本人医師とともに活動することで成果を残した者もいた。日本人女子学生をアメリカの医学校に留学させたり、女性・子供の患者、精神病患者に注目した者もいた。
5章 宣教看護婦による看護教育だけでなく看護実践にも注目。1880-1890年代のミッション看護教育は長続きしなかったが日本赤十字社病院が看護婦供給において重要な役割を果たした。1915年の「看護婦規則」の制定など明治末期から大正初期にかけて専門職として看護婦が確立。ミッション看護教育も1920年代以降発展する。聖路加病院と聖路加女子専門学校の公衆衛生看護の教育と実践。健康な人を含むすべての人を対象とする公衆衛生看護婦は、その後、保健婦、学校の教護教諭などに発展した。看護婦にとって英語圏への留学がエリートコースであったのは、東大医学部などの医者のエリートの多くがドイツへの留学を目指したのと対照的。看護学校の多くは日本人女性を教化することではなく、すでにクリスチャンである日本人女性に専門職を身につけさせることを目的とした。
6章 1900年以降もセブンスデー・アドベンチスト教会とアメリカ聖公会は医療宣教を積極的に行った。セブンスデー・アドベンチスト教会は、教会創始者のEllen G. Whiteが「衛生改革」という健康的な生活の順守を主張し、実践の場として病院を開設。アドベンチストの医療思想の中心はコーンフレークの開発で知られるケロッグで、水治療法を重視した。神戸と東京を中心に医療宣教を発展させるが、1937年の日中戦争開戦ー国家総動員体制下で運営が困難になり、1944年には教会の閉鎖と解散が命じられる。水治療法は最新の物理療法として世間に注目され、神戸衛生院や東京衛生病院は高く評価された。
7章 アメリカ聖公会。トイスラーが設立した聖路加病院は慈善医療を推進し、一九一一年に内務省から褒章を与えられる。当時内務省は民間の慈善事業を振興して政府の救貧事業を縮小しようとしていた。トイスラーは上流階級の日本人からの信頼を得ることを重視し、東京帝大のドイツ人医師を雇用する、陸海軍などの官庁とつながりを築くなどして上流階級の患者の獲得に成功。大規模・国際病院・メディカルセンター(看護婦の教育・訓練、学校衛生・母子衛生への参加、医療ソーシャルワーカーなどの病院職員との共同作業を備えた総合的な医療施設)であることが特徴。戦時下において外国人が運営から排除され、厚生省は聖路加病院を大東亜共栄圏の医療の中心としようと期待していた。
8章 終戦後、GHQ/SCAPはドイツ式の医療制度をアメリカ式に変える改革を進めた。聖路加病院は院長の橋本寛敏らによって、病院管理、医師卒後研修、看護においてアメリカの医学を実践する模範的な病院となった。
9章 戦後の医療宣教について総合的に分析。キリスト教取り締まりが緩和されたため再び宣教師が来日した。戦後の医療宣教の特徴としては、新生児医療と終末期医療の充実があげられる。これらは長期的なケアのため宣教という観点から好都合である。また、医療の担い手として、医師と看護婦の他に、医療ソーシャルワーカー、病院管理者、栄養士、ボランティアなどに多様化した。専属の牧師(チャプレン)も配属されるようになった。
終章 1859年からアジア・太平洋戦争後までのアメリカ人医療宣教師の活動の全体像。

武田雅哉『中国飛翔文学誌』(人文書院 2017年)

はじめに ジュール・ヴェルヌからはじまる意外性。『説文解字』『漢語大詞典』の「飛」と「翔」の文字の説明。「古代人のロマン」で済ませるのは現代人による理解の放棄というのは本当にそう思う。ベルトルト・ラウファー、マージョリー・ニコルソン、J.E.ホジソン、C.H.ギブス-スミス。
第一夜 中国の「仙人」像はおじいさんではなかったらしい。古代の仙人は体毛で空を飛ぶ。仙人の飛翔行為の4分類。姿も形もいろいろある。
第二夜 パラシュート。舜の降下エピソードについての解釈いろいろ。
第三夜 人造鳥類。『武備志』の鳥と龍がデザインされたミサイルの絵が興味深い。
第四夜 凧上げ。凧を小道具とした恋愛劇が印象的。
第五夜 空飛ぶ乗り物のデザインいろいろ。昇仙図の解説が楽しい。『古今図書集成』の奇肱の飛車とドルニエDo335プファイルのデザインを比較する著者の想像力がすごい。「陸を走る船」についての東西伝承いろいろ。
第六夜 『抱朴子』の記述を現代の科学史家たちが文脈を無視して現代科学の先取りとして解釈・評価することを批判したうえで、『西遊記』の猪八戒がジェットストリームに乗ったとの推測を「バカばなし」として提供する著者のユーモアが読んでいて楽しい。葛飾北斎の飛翔機械のデザインは中国系飛車の影響を受けている?『ラーマーヤナ』の飛翔機械プシュパカはしゃべる。
第七夜 黄河は天の河につながっているという地理的神話を前提とした、いかだに乗って黄河を行き織女に会い「支機石」という石をもらうという伝説。支機石がパワー・ストーンになったり成都の観光スポットになったり。
第八夜 玄宗皇帝の月世界旅行譚いろいろ。演劇における展開。
第九夜 月の構造について。月世界へ通じる円形の窓として描かれる場合。天の門が開くという現象について。望遠鏡の受容。
第一〇夜 飛翔実験の真偽不明のエピソードいろいろ、球体ロボット「木球使者」。素性不明の「ワン・フー」のエピソードが中国の科学史で重宝されていること。
第一一夜 清末。気球について。観光用気球、戦争用気球の中国人による描写。
第一二夜 清末。異国のニュースに触れた中国人絵師たちの描く羽ばたき飛行船(オーソニプター)の数々と、文人や海外在住の中国人による実用的な飛行技術の紹介。「飛翔機械から大地を見おろし、また天空を飛ぶ飛翔機械を見あげるという、悦楽をともなった視線の交歓」と「大量殺戮者と非殺戮者の視線」(=「垂直方向の視線」)の対比は本書の底流となっている。
第一三夜 清末SF小説、SF演劇について。『月球植民地小説』における日本の義士「藤田玉太郎」の描写や『新野叟曝言』でのヨーロッパとの戦争など、政治的に興味深い。
第一四夜 UFOについて。新中国建国前後の不安定な時代にUFOと「毛人水怪」が世間をにぎわせたこと。原子爆弾の投下のニュースによって人々の精神状態が不安定になったため目撃談が出ているという見解、「毛人水怪」が原子爆弾の原料を得るために人々を襲うという噂など、原子爆弾投下が中国人の心理に与えた影響が興味深い。
第一五夜 中華人民共和国の誕生。飛行機をモチーフとしたポスター、『ケンタウルス座に飛ぶ』。「ことば」による飛翔計画はまだ続行中という文章で締めくくり。
あとがき 荒俣宏、高山宏、ベルトルト・ラウファー、マージョリー・ニコルソンらの著者への影響。本書の構想と執筆の経緯について。読んでいて、これはすごい量の文献を読み込んでいるなとは思ったが、三十年かかっているとは。脱帽。