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トンネルを抜けるとそこはニシンで栄えた町。

小樽の毛無山(けなしやま)の展望台から、石狩湾の向こうにうっすら見える町が目的地だ。海岸線に沿って国道を、いくつものトンネルをくぐりぬける。トンネルの合間には、小さな漁港、切り立った崖が続く。
着いた町は増毛(ましけ)町だ。
 明治から昭和の初めに作られた大きな美しい木造建築がいくつも残っている。大きなお寺の近くには、「中村屋製菓」がある。柔和な笑顔の白髪頭の店主が作りだす和洋様々なお菓子に目移りがする。なかでも、昭和の頃には道内各地にあった中花(ちゅうか)まんじゅうは今も健在で大人気だ。
 日本海の幸を食べよう。名店「まつくら」で前浜を味わうのもよし、町寿司「福よし」で地元の民の気分で食べるのもいい。はずせないのはハタハタの唐揚げだ。海鮮丼と魚の唐揚げの組み合わせは、なかなかオツなもの。
北海道といえば蕎麦もいい。「カフェドゥソバ凛」では、京都で食べるような洗練された味のにしん蕎麦が食べられる。何故ここでにしん蕎麦??

 地形的には山をいくつも越えてたどり着く日本海に面した鄙の地に、
長い時間を越えて豊かな食文化が伝わっているのはどうしてだろう。
そのひみつを、さぐることにしよう。
   ここではトンネルも車も鉄道もない昔、主な行き来の場は海で、その海からやってきたのは船に乗った人々と魚だった。
とりわけニシンは群来(くき)という名のとおり大群で、白子で海を真っ白にしながらやってくるのがお約束。
とても食べきれない量のニシンは茹でて乾燥され、なんと肥料として本州に船で送られた。この肥料で綿花の生産量は爆発的に伸び、それまで麻の着物で冬の寒さを防ぎきれずにいた庶民が、保温性の高い綿の着物を着られるようになったという。この北前船がつないだ北海道と本州の歴史は、日本の産業革命に違いないと道産子のわたしは思っている。
 たくさんのニシンは仕事を生み、人を集めて、この地は大賑わい。
ニシンは宝だったのだ。
一つの魚が、一つの町を作っていったのだ。すごくないですか?

   その中で明治15年に生まれたのが日本最北で北海道最古の酒蔵・国稀酒造だ。敷地には明治から大正期に作られた石蔵や木造建築が並ぶ。なかでも杉玉のかかった建物は店舗であり、当時の生活を偲ばせる民藝館のようなたたずまいだ。
 北海道の日本酒は、産業の発展とともに生まれた。
国稀酒造はニシン漁、道央栗山町の小林酒造は隣町夕張の炭鉱、そして道東根室で北方領土を目の前にした碓氷勝三郎商店は漁業というように。きつい仕事にはその日をチャラにする酒が必要だった。
 国稀酒造の前身は、京都の古着を集めて増毛で売る呉服屋だったという。古着といえど京都の着物をまとった人々が闊歩する町中は、それは華やかだっただろうなぁ。

    鉄道が通ってからも町は賑わい、明治から昭和にかけての建築はその後、いくつもの映画で使われることになる。
 ところが、町の立役者だったニシンは、今から70年ほど前にぱったりと来なくなった。ニシンを運んだ北前船は明治の中頃、鉄道の発達とともに姿を消していた。町は静かになっていった。
 がしかし、人々が育んだ文化は建物や食べ物で町のあちらこちらに息づいていて、前浜の魚介類のおいしさは昔から変わらず格別。ここが魅力のある町であることには違いない。そして、すべての背景であるニシン漁のことを知ると、その魅力はもっと輝きだすのだ。
 老舗のニシンの加工業者「北日本水産物株式会社」は先日、鰊とカズノコのバッテラで、クラファン2000%を達成した。町とニシン漁への誇りなくしてこんな挑戦ができただろうか。
わたしはこの町の、食が育んだ底力におそれいる。
この町は、旅するわたしたちにおいしい宝さがしをさせてくれる。
 わたしの定番の楽しみは、海岸近くの「遠藤水産」で新鮮な透き通った甘エビを買い、ジップロックにお醤油と一緒に入れて持ち帰ること。
夕方帰宅するころには、沖漬けのようなご機嫌なつまみが出来上がっている。
甘いミソに醤油がしみて、ちゅるんと胃に落ちていく。
酒はもちろん、国稀で。
日本海の群青色を思いながらの晩酌は、たまらないですよ。

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