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「自然体で接してくれたらありがたい。」失語症当事者の方へインタビューしました

こんにちは。北海道吃音・失語症ネットワークです。

このnoteでは吃音や失語症など、ことばに悩みを抱える当事者の方々にインタビューを行い、体験談や想いを発信しています。

今回インタビューを受けていただいたのは、札幌市にお住まいのA様。脳梗塞により失語症となり、現在もことばの不自由さと日々対峙されています。日々の中で直面する戸惑いや困難とどのように付き合い、または乗り越えてきたか・・・。想いを一生懸命にことばにして伝えていただきました。

同じく悩める方々にも、支援者側の方々にとってもヒントとなるお話をたくさんいただきました。

※失語症のため長い文でお話することが難しい状態です。インタビューを記事にするにあたり、当方で意味が通りやすいよう文章化しています。


お話を伺った方

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80 歳代、女性。札幌在住。約3年前に脳梗塞となり失語症を発症。入院を経て現在は自宅退院し、当団体の言語聴覚士(ST)による訪問リハビリと、通所リハビリにて失語症に対する訓練を継続されている。趣味は、家族での旅行。


失語症を発症した当時のこと


ーー発症当時のこと、教えていただけますか。

脳梗塞を発症したのは、令和元年の 12 月です。突然でした。 最初に自分が感じた違和感は、いつもやっている洗濯なのに、洗濯機の使い方が分からなくなった。あと、電話をかけようとしても、電話番号を思い出せなかった。なぜかことばも出しにくくなって、「あれっ?」と頭が真っ白になったの。 


ーー普段当たり前に使ってきたことばが思うようにいかない。その不安や混乱は、簡単には想像できない絶望・焦りだったことだったと思います。

電話もかけられないから、歩いて5~6 分の所に住んでいる娘のところに歩いていったの。 だけど娘がいなかった。 その後、「変だな、変だな...」と夕方まで、食事も摂らないで「どうしよう、どうしよう」って。ただ、時間が過ぎていった。

ーー北海道の 12 月。寒さも厳しかったことでしょう・・。

夕方、息子のところに行ったけど、その時はまだ病気だって思えなかった。だけど、後になって分かったんだけど、ちゃんと鍵はかけていったの!(笑)。
息子のマンションに行って「どうしたの?」って言われても、ことばが出なかった。 自分で声を発することができなくて、どうやって言えば良いか分からなかった。

息子の家の中に入っても、ぼーっとしていたんでしょうね。話もできない様子を見て、「何か変だよ・・・。救急病院に電話かけないと!」って言ってたのは、聞こえていて、理解できた(笑)。

救急搬送されてからのこと


ーーー救急搬送後のことについても教えていただけますか。

 救急車が来て、救急隊員が「脳梗塞だわ。病院を探さなくちゃ。」って言って、2〜3か所に電話をかけて、時間にして30~40 分たった頃、受け入れてくれる病院が見つかったとのこと。 脳の MRI 検査をして、そこから入院。
今の自分の状況に戸惑いしかなかった。 周りがバタバタしている状況、「何が起こったんだかもわからず」茫然としてたの。

ICUに入って周りを見たら、いっぱい人がいて。中には、管やモニターがついている人もいて。初めてICU に入って、「これは大変なことだ。」って、事の重大さが分かった。

 看護師さんからは、「大丈夫ですよ」って声をかけてもらっても、自分から尋ねることもできなかった。何が何だか分からなかった。 書こうとしても、文字も書けなかったし、読めなかった。本当に、気が狂いそうになっていた。「何ならできるのか...?」と、自分の状態の把握にも時間がかかった。言えない・伝えられないってことが、すごいショックが大きかった。

泣けてきたの。何ていうか...自分が惨めで惨めで、涙がとめどなく出てきたの。

これまで当たり前のようにことばを使って生活してきて、突然ことばを失う状況。どうにもいかない状況を、A さんは、少し息を飲んでから、身震いしながら、その当時の感情を教えてくれた。


ーー病気になったこと、これが「自分にリアルに起こっていること」と、把握するまでに時間が必要でしたよね。その不安や絶望感はどのように、いつ頃、少しずつでも払拭できたのでしょうか。

夜が明けても状態は変わっておらず、「このまんまじゃどうしようもないな...。」って、まだ絶望だった。 すぐには前向きにはなれなかった。看護師さんがなんだかんだ言っても、冷静に理解できる状態ではなく、全然頭に入ってこなかった。
翌日に、STの先生が来て、自己紹介をしてくれて、声が出るかどうかから確かめてくれたけど、ことばとしては、出そうとしても出なかった。自分の名前すらも、言えなかった。

STの先生との時間を通して、「トレーニングが必要なんだ」って思えた。 「泣いていられない!」と、自らを奮い立たせて、前を向くようにしたの。

※この方の失語症状について
A様の症状はブローカ失語によるものです。                 <症状>自ら発する言語の障害が顕著で、重症例ではまったく発語がみられないこともある。 発語のある場合でも努力を要し、特に話し始めに顕著で言葉の流暢さに欠けるのが最大の特徴。 聴いて理解することの障害は文章レベルでは多くにみられ、単語レベルでは正常な場合から高度障害まで多様。


リハビリを頑張った入院期間

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毎日、日中はリハビリに励んだ。リハビリの時間以外も、病室でひとり、自分の名前や住所など、STの先生が書いた文字を手掛かりに、何十回も、何百回も、書く練習した。

人に何かを伝えたくても、自分が言いたいと思っていることを伝える手段がなかった。 かなりの葛藤とストレスがありました。 

「失語症」と最初に告げられた時のことは、はっきりとは覚えていない。ただただ、あらゆる場面での自分の状態から、身をもってこの大変さを実感してきた。できることで、何とか伝えるような生活の中、「ことばが出ないということが、こんなにも大変なんだ。」って思った。

入院期間は、「何とかしたい。何とかしなきゃ。」という思いで、前を向くしかなかった。「明日は、今日よりも頑張ろう。」と1日ずつ積み重ねてきた。
病院には、STの先生がたくさんいた。担当の先生以外の STの先生も関わってくれた。自らことばの宿題もお願いして、いっぱい出してもらった(笑)。
絵を書いたり、書かれた文字のことばは理解できないけど文字に触れる習慣はつけようと、本も読むようにした。「これから先の生活、どうなるんだろう...。」って、夜も寝れなかった。不安は、どんどん増幅していって。話せないから、同じ病室の方々とも話さなかった。


ーーその当時、A さんから見えたご家族の様子はどうでしたか? 

「相当心配してくれてるんだろうな・・。」と思いつつも、私自身は案外冷静でいられた。 当時のコロナの関係で、面会はできなかったけれど、毎日お見舞いに来てくれていることを看護師さんから聞いていた。 直接は会えなかったけど、入院した次の日から毎日お見舞いに来てくれたこと、それで「1 人じゃない」と思えたし、自分のことを分かってくれる人がいることが安心できたし、支えになった。 

もともと携帯も持っていなくて、メールもしないの。息子が、携帯電話の使い方を看護師 に教えてあげてくださいって頼んでいたみたい(笑)。


退院後のこと


2 カ月がたった頃、身体はしっかり動く状態だったから、退院の話が出始めたの。 

まだまだ、ぜんぜん話せる状態ではなかったから、「この状態で、放り出されるの?」という思いでいた。 今後の生活のイメージも湧かなかったし、自信もなかった。家に帰ってから何に困るのかも想像できなかった。だからもう少し、リハビリをしたい!」と伝えて、1 カ月入院を伸ばしてもらって、ことばの練習を続けた。


ーー退院当時を振り返って、実際、どんなことに困りましたか? 

もうね、ことばにならないということは、困ることだらけ。遠くに住む妹は、しょっちゅう電話をかけてくれるんだけど、留守電を入れてくれても返事ができないし、来客が来ても出れないし。手紙の返事を書こうと思っても、満足に書けないし、ハガキ 1 枚を書くのに何時間もかかった。

 病前は、人とのつながりが多く人付き合いも広かったが、「話せないから、人と会っても仕様がない。」と思って会わなかった。買い物も、1カ月くらいは人に会わないように、外にでなかったそう。


ーーこの状況を打開するために、起こした行動はありますか?

思い切って、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、1人で買い物にスーパーに行ったの。 何を買うでもなく、ただ行ってみることからだったけど、そこで「もう大丈夫。」って自分で思えた。 そこから、自宅への来客にも、電話にも、出るようにした。 

ことばが出なくても、しばらーく待ってくれた。「分かってくれてるんだなー。」って、嬉しかった。自信がなくて「話しはできないわー」と言っても、「いや、はっきり聞こえるよ!」って言ってくれた。会話も楽しめるようになった。孫も、私の話を、よく聞いてくれるの。 


ーー退院後のSTリハビリ継続についてはどのような予定でしたか?

先生に聞いたらね、訪問してくれる人はいるけど、訪問できるエリアがあって、この病院の訪問では行けないよ。」っていう話だったの。 

自宅退院可能な状態(運動面や生活動作全般に問題がなくなった)であったが依然失語症は残存、まだ全然話ができない状況であった。人のつながりで当団体に相談があり、そこから訪問によるSTリハビリがスタートした。

訪問リハビリへつながるまでの苦労


ーー(訪問リハについて)どこに頼めばよいか、が明確ではないですよね。探すことからご家族の方に丸投げしてしまうケースもあり、現在の課題だなぁと感じています。

実際、どこにどう声を掛ければ良いのかかなり難しいと感じた。

でも、最近の病院通院のとき、発症当時から担当してくれている主治医から、「ことばが、はっきりしましたね。」と言われて嬉しかった。

いろんな STの先生方にことばを教えていただいて、少しずつ良くなってきたことを感じられた。

病気になって変わってしまったことはたくさんある。今までできたことができなくなった。だけど、変わらないものもある。息子や娘、孫と旅行にも行けた。 

妹に励まされ、娘にしかられて(笑)、支えてくれて。皆に関わりをもっていただいて、 ありがたいと思っています!


これから、について。

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ーー今後の目標などはありますか?

「どう生きていきたいか」っていう大きな目標は、まだ今は立てられていないです。

これまで、1 年に1回は東北にお花見に行ってた。最後に行ったのは4年前に吉野山に桜を見たし、娘とも1週間くらい京都に旅行に行っていた。これも4 年前が最後。また旅行したいな。体力も落ちたし、晩に疲れを感じるようになったけど、新たな目標かな。 

ことばについては、スラスラじゃなくても良いから、不自由なく会話ができることが目標。今は一人暮らしだけど、退院してからずっと、家族が1週間に1度はこの家に来て食事をしてくれる。 退院した当初は、その場面でも話さなかったが、私も努力をして、会話をするように努めているんです。


ーー今、戸惑い、苦しんでいる方がいたとしたら。または当時の自分に声を掛けるとしたら... なんと声をかけますか?

まだ、私も頑張っている途中だから、何も言えないけど、 看護師さんが「大丈夫よ。」って傍にいてくれたことがありがたかった。
STの先生には、すごく細かく、たくさん教えてもらった。一緒にリハビリで過ごした時間は、感謝です。

家族は皆、自然体で接してくれるのが有難いんです。 変に心配されるのも良い気持ちがしない。病人としてだけではなく、今までの私として、自然体で接してくれるほうがうれしい。

退院後に通所で出会った方から「どこが悪いの?」と聞かれて「ことばが悪いの。」って自分で伝えたら、旦那様が失語症を抱えている方と話ができた。その人は、「主人にことばの練習をさせた。絶対大丈夫。ことばは出るようになるよ。」って言ってくれたそう。「私も努力して、話せるようになったときに、私も励ましのことばとして、同じようにお伝えしたいなーって思います」。


編集後記

当日は笑顔で迎えてくださり、病前の写真や自身が取材された雑誌記事などを通して、和やかにインタビューが始まりました。2 時間を超える長丁場のインタビューとなりましたが、笑い合いながら、とても楽しい時間でした。その姿を通し、改めて A さんらしく会話を楽しめるようになったことが嬉しかったですし、これからの目標を一つずつ叶えていけるよう、こ れからも当団体でも訪問でのことばのリハビリを継続させていただき、これからの A さんの生活や人生が明るいものになるよう、ともに頑張っていきたいです。

改めまして、ご協力いただきました A さん、心より感謝申し上げます。

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