【コラム これからの保育のために】第10回 学習性無気力を援助する
前回から続いています。
危険な行為や大人から見てしては困る行為を制止してもとまらないなど、子供の慢性的に難しい姿に直面し続けて、大人が子供への関わりに無気力になってしまう状態が、保育者にも保護者にもたくさん見られるようになってきています。
この状況は適切な援助的アプローチを理解していないと安定した解決に導けません。
「援助的アプローチ」とわざわざ述べているのは、そこを明確にしておかないと「指導的アプローチ」におちいりやすいからです。
「これこれこうすればこうなるからあなたも頑張りなさい」といった、ある種の正解を念頭に置いてそれをなぞらせるようなアプローチが、ここでいう指導的アプローチです。
たとえば、「危険な行為をしていたら毅然として叱りなさい」のような。
もっと優しいいい方にしたところで、「これこれこうすればいいんですよ」のようなアプローチが指導的であることには変わりません。
援助的に関わるときに忘れてはならないのは、「私にできることが相手にできるとは限らない」ことです。
上の例でいえば、それを言う人には「危険な行為をしていたら毅然として叱りなさい」がなんの問題もなくできるのかもしれません。しかし、それができない人もいるわけです。
(単にできないという話だけではなく、その関わりをはじめてしまうと手が出ることが止められなくなるために、頑張ってそれをしないようにしているといった込み入った問題を抱えているケースすらあります)
ですので、それができないことも含めて援助的に関わっていかなければなりません。
指導的なアプローチに終始していると「頑張ればできるはずなのになんでやらないの」といった否定的、他罰的な見解すら引き起こしてしまいかねません。
保護者支援で考えたとき、こうした保育者側のありようは信頼関係の低下をもたらします。
なので、保育者は援助的に関わることをスキル化する必要があるでしょう。
特にこれまでの社会には、子育てをする女性に頑張りを求める空気感が厳然として存在していました。それゆえに、こうした否定的な見解は専門性の上に避けられるようにしなければおちいるべくしておちいってしまいます。
細かいようですが、ここが保護者から本当の意味で信頼される保護者支援かそうでないかの分水嶺になるといっても過言ではないでしょう。
◆アプローチの実際とスタンス
さて、では学習性無気力におちいっている保護者・保育者が目の前にいるとしてそのアプローチを考えていきます。
その状態にある人は、その問題を指摘されること自体がつらくなっています。
援助側に否定するつもりが一切なかったとしてもそれを過敏にとらえます。
その人自身それが良くないことを重々わかっていながらも、それをどうにもできないのでそうした心理になってしまいます。
それゆえにかえって攻撃的になる人もめずらしくありません。
たとえば、「私は叱らない子育てを実践しているのでほっといて下さい!」のような反発的な姿。自分を否定されるまいと、園や保育士のあり方にいちいちクレームをつける人になってしまうといった姿などもよくあります。
ここには子育てや保育を取り巻く、人間の心の機微の問題があります。
たとえば、スマートフォンの上手な使い方を伝えられて自分の人格を否定されていると取る人はまず滅多にいないことでしょう。
しかし、自分の子育てや保育を多少であってもよろしくないのだと指摘されることは、まるで自分の人格を否定されるかのような大きな痛手をこうむったと感じる人は少なくないようなのです。
ですので、こうすればいいですよ的な指導的なアプローチはその反発をまねくリスクがあります。また、そう取らない人であったとしても、「こうすればいいですよ」がそもそもできないからそうなっているわけです。
なので、アプローチは少し遠回りなようであっても地道な信頼関係の構築が先に必要です。
◆味方であること
子育て、とくにそれが安定していない人にとって他者は怖いです。
責められるのではと思うからです。実際に、この社会にはそうした子育てする人を責める空気がたくさんあります。
保育者はそうでないことを言葉や態度、実践で繰り返し伝えていかなければなりません。(もちろん、安定、安心できる保育も)
味方である。同じ側に立つ人であること。それを何度もさまざまな形で宣言していくわけですね。
それで作られた信頼関係がスタートラインです。
たとえば、子育てのしんどさをなかなか吐露できない人もいます。
そうした人には、「最近お仕事忙しそうですね」のように直接に子育てでないところでの共感、肯定、エンパワーメントを積み重ねていきます。
そうした前提を大事にすると、保護者の方から子供に関わるしんどさを出せるようになったり、子供の姿を話題にしても自己防衛や反発、拒否などでない態度で話せるようにります。
◆保護者に求める前にできること
世間一般に流布する子育て観(しつけの子育て観)のままだと、保護者に子供の姿の責任を求めるものになりがちです。
しかし、現代がこれほど子育て支援が重要視されている元には、そもそも家庭の子育てだけで完結できないものであるという認識があるわけです。
だから、こうした保護者に子供をどうにかしろと求める価値観そのものが適合しないのですね。
(しばしばある、「保護者が休みの日なのに子供を預けて・・・」といった否定的な見解は、こうしたかつての価値観が背後にあります。保育者がこの価値観のままでいるのは大変危険なことです)
今回テーマにしていることには厳密にはふたつの問題があります。
a,ネガティブな行動が慢性的になっている子供の問題
b,そうした子供を前にして無気力になってしまっている保護者(保育者)
のふたつです。
ここでb,だけをみても解決しません。
保育者は、まずa,に対してできることを考える必要があります。
「ネガティブな行動が慢性的になっている子」は普段から注意や制止、叱責など否定的に関わられることが積み重なりがちです。
もし保育者が、「その子をちゃんとさせなければ」とばかりに、そうした注意や制止を積み重ねていたとしたらどうでしょう。
それは解決どころか火に油を注ぐことになっています。
人間は子供に限らず大人ですら、積み重ねられる否定的なアプローチに耐えられるものではありません。子供においては「肯定不足」は、それそものがネガティブな行動の原因となります。
つまり、保育士がやるべきことは、いかにその子に配慮的・意図的に否定を少なくし、肯定を増やせるかが専門職として必要なことになります。
もちろん、それはすべきでないことを保育者が我慢して許容しなさいということではありません。(しばしばこの誤解が現場では発生しますので注意して下さい)
大切なのは、「私もあなたも心地よい経験」を意図的に構築できることです。
たとえばある程度の年齢、発達段階にいっている幼児などでは、役割を作りそこでの経験を通してほめたり、自信を培ったりして、自己有能感を実感できるよう企図するなどです。
もちろん、遊びを通して保育者と楽しい経験を共有するなども、それにあたります。
もし「甘え」の出せる子であるならばしめたものです。
積極的にその甘えをよいものとして受け止めていきましょう。
慢性的な肯定不足におちいっていると、そもそも人を信頼できなくなりがちなので、「甘え」は出せなくなっていきます。しかし、もしその子が甘えを保育者に出せるのであれば、それはその保育者に対する信頼や、期待のあらわれです。
「甘え」というのを悪いものととらえる価値観は世間に根深いですが、それは人間の人格形成の核であり、非常に大切なものです。
ですので低年齢の子ほど甘えは出しやすいですね。
ただし、このときのポイントがあります。
それは、ムリムリ頑張って受け止めるものではない点です。
「私(保育者)もあなた(子供)も心地よい経験」
これですね。
「私が頑張って自己犠牲的にその子の甘えを受け止める」のでは、安定した関係性になりません。
むしろ、これを頑張る保育士、保護者は子供への関わりそのものが大変になります。そしてある時点でその関わりの限界がきます。
まさに、学習性無気力を生む原因のひとつになっています。
もし、子供が受け止めがたい形で保育者への関わりを求めてきたら、子供を恐れず、どうどうとそれを拒否して、「私もあなたも心地よい経験」に組み替え、そこで肯定的・互いに楽しい関わりを構築するようにしましょう。
たとえばこんなかたち。
3歳児。保育者と関わりたいが、保育者の背中に体当たりしたり、蹴ったりするネガティブな形でしか関われない。
この状況に対して自己犠牲的に蹴られるのを我慢するのではなく、「それは私はイヤです」ときっぱり宣言して、こうなら私も気持ちよく受け止められるというのを提示する。
保「そんなことしないで、前からダッコしてって言っていいんだよ。はい、言ってみて~」
子「ダッコして!」
保「うん、いいよ。ギュウ-」
こうしたアプローチを繰り返して、子供の行動や関わりの「モデル」自体を、大人が気持ちよく受け止めやすいものに組み替える配慮を重ねていく。
保育園でそれを十分におこない、保護者が受け止めやすいものにしていく。
これを意図的に構築できれば、保護者に頑張りを求めるのでなくとも、その状況を解決に近づけることができます。
b,の解決の前提として、a,を園でできるだけのことを配慮するという視点のお話しでした。
保育士おとーちゃんこと須賀義一です。 保育や子育てについて考えたことを書いています。