【コラム これからの保育のために】第7回 支配の保育にいたる構造を乗り越える 後編
◆方法的問題
次にしつけの価値観で保育を考えることが方法的問題を引き起こす側面についてみていきます。
そもそも「しつけ」とは「あるべき状態に留めおくこと」を意味します。
新しい着物やスーツを買ったときについている「しつけ糸」がまさにそれですね。これが子供を型にはめる保育になり、本来の保育の目的に合致しないことは前編でみました。
さらに子育てで使われるしつけの動詞形を見てみます。
それは「しつける」ですね。
もっと正確には「大人が子供をしつける」です。
さて、こうするとしつけの方法的問題が見えてくるのがわかるでしょうか。
まず主語はだれでしょう?
その文の主語は「大人」ですね。
「しつけ」で考える子育て・保育は、大人が主体で子供は客体でしかありません。
(いずれ別記事で触れますが、ここが保育における「主体性」理解を迷走させる原因のひとつになっています)
また、大人と子供の関係性に着目して見直してみましょう。それぞれの位置関係はどうなっていますか?
大人が上位者で、子供が下位者になっていることはあきらかです。
これは不適切行為の背景にそのままなり得ます。大人は子供を従わせるものだという見解を引き起こすからです。
不適切保育が社会問題になって以来、あらためて子供の人権が考えられるようになりました。
子供を人権的にとらえ、子供の人権を尊重する立場で考えれば、大人と子供は上位者下位者ではなく、対等の人権的、人格的存在であることは言うまでもありません。
しつけで考えてしまうと、アプローチの始まる前からそこに問題を生んでしまいます。
さらに具体的方法をみていきましょう。
保育をしつけで考えたときにこれらが引き起こされます。
a,干渉的アプローチ
b,依存の助長
c,否定のアプローチ
以下にそれぞれを見ていきます。
a,干渉的アプローチ
大人が子供の姿を作り出すことが保育の目的化するので、必然的に干渉的アプローチが増大します。
・保育者が干渉して、正しい(とされる)姿を作り出す
・保育者が干渉して、行動に取り組ませる
・保育者が干渉して、問題を起こらないようにする
・保育者が干渉して、問題を解決する
b,依存の助長
干渉的アプローチが慢性化すると、子供の獲得する姿にはそのまま負の側面が増大していきます。
・保育者が干渉しなければ、正しい(とされる)姿を出せない
・保育者が干渉しなければ、行動に取り組まない
・保育者が干渉しなければ、問題を起こしてしまう
・保育者が干渉しなければ、問題を解決できない
つまり、子供の行動面では大人に依存的になり、成長・発達としては幼い姿のままに保育者が留めおくことになります。
a,の関わりがそのままb,の問題を引き起こしています。しかし、a,を頑張ってしてきた保育者にはb,の問題が自分たちのアプローチの結果と自覚的に認識することは難しいです。すると、「この子達は大変だ」「子供というものは大変なものだ」といった認識が生まれ、さらには「人手が足りない」「もっと干渉を強めなければ」という感覚につながってしまいます。
c,否定のアプローチ
しつけの感覚での子育て・保育は、特に子供のよくない部分への着目を強めます。そしてそこへの否定に類するアプローチが投げかけられることが多発します。
注意、ダメ出し、叱責、疎外、落胆、否定的比較。
そこではほめすらも否定の文脈となります。
ほめは表面的には肯定していると認識されがちですが、大人が子供に○○できるようにという作為を込めたほめである場合、それは「○○できないあなたは許容できません」というメッセージを敏感に感じ取る子供もおります。それでは肯定になっていませんね。
「たくさん食べられてえらいな」→「たくさん食べないあなたを私は許容できません」
矯正という言葉があります。正しくないものを矯めて(ためて)正しくするということですね。
保育がしつけ、つまり「子供に干渉して正しい姿を作り出すことだ」と理解されていれば、保育の営みが矯正の営みになってしまいます。それは保育のめざすところではありません。
なぜなら、子供は(というよりも人間は)そもそも多様なあり方、多様な環境、多様な成長の仕方をしているものだからです。しつけの価値観が想定するような狭い範囲での「正しさ」はそうした多様性と相容れないものです。
保育者の姿勢に必要なのは、「この子の姿は正しくない. 直してあげなければ」ではなく、「ああ、この子はこういう成長のステージにいるのだな。こういう成長の仕方をするのだな」と一旦あるがままの姿を許容的に受け止められることです。
それができる保育者・保育施設は、保育が否定や干渉のアプローチで埋めつくされるのではなく、肯定のアプローチで保育を構築していくことができるようになるでしょう。
◆「しつけ」をとりまく価値観のギャップ
さて、ここで保育を取り巻く価値観の変化というこのコラムの本来のテーマに視点を戻してみましょう。
これまでの子育ての主流の価値観であり、保育にも少なからず影響していたこのしつけの価値観は大人が子供の支配者になることから、否定、高圧的、威圧的強い関わりや冷たさ、モラルハラスメント的意地悪さ、罰すら許容する感覚などと不可分の価値観であり、それがために若い保育者や現代的な価値観を獲得している保育者から、しつけの価値観を強く持っている保育者のあり方は受け入れがたいものとなっています。
実際にそれゆえに多くの人が保育士になることをあきらめたり、その職場をやめたり、保育士をやめたりしています。
現実に起こっている不適切保育にしても、その当人の感覚としては正しい目的のために正しいことをしているという認識をともなっているものがほとんどです。
つまり、方法論以前に保育や子供をとらえる価値観にネックを引き起こしています。
ここを踏まえないといつまでたっても、「正しい(とされる)目的のために不適切な方法をもちいること」という不適切保育の構造は解決されません。
こうしたしつけの価値観・感覚による保育を乗り越えることが、専門的な保育を確立するためには欠かせないものです。
保育士おとーちゃんこと須賀義一です。 保育や子育てについて考えたことを書いています。