第18回 「倉橋惣三に学ぶ|保育案と先生の関係」
『幼稚園真諦|倉橋惣三 著』
読むたびにあふれる気づきや学びを書き留めていきたいと思います。
この本は、昭和8年(1933年)夏の
「日本幼稚園協会保育講習会における講演の筆記」となっています。
実践からきている内容であることを踏まえると、およそ100年前の状況を見ることができると言えるのですが、知らずに読んだとしたら、現代に書かれたものだと思うほどに時を越えて響く内容です。
第18回は、
保育案(計画)と先生の関係について
触れていきます。
第2編-8 「保育案と先生」
”幼稚園というものとして最も大事な問題”
と倉橋が言います。
それは、誘導保育案(子どもから出発する子どもが主体的に生活する長期的な計画で常の軸となるもの)を立てて保育を営んでいくときに、”先生はどういう位置におかれるものか”ということです。
〈保育者の立てた計画に子どもを強いる「あてがいぶち保育案」である場合〉
・先生は子どもたちの前に立つものとなる
・指示、命令が多くなる
・なかには何をするかを決めてなく、その場で話しながら考えている人もいる
・「今日は折り紙」「明日は粘土」と、こちらで計画したものを出し、それをさせる
子どもは、先生がうまいこと言ったりやったりするから、じっと待っていられる。しかし実は、何のために先生がこういうことを準備しているかは分かっていない。これを、潜在興味とは反対の ”空待ち” ”空期待”と倉橋は表現しています。
空期待して、形式的に緊張して、先生が何かいいものを出すのを待つ。
少しオーバーな表現に感じますが、これに近いあり方になっていないかは常に確認したいですね。
そして、こう続きます。
子どもが喜ぶ=保育技術の高さだと思っている場合は気をつけた方がいいでしょう。保育者主導で展開して「子どもは喜んで自分からやってる(ように見える)から見物人ではない」と主張する方もいますが、それは「見物人」とほぼ同じです。
〈真の誘導保育案の場合〉
先生が子どもの前で”すること”に焦点を当てるのではなく、どこまでも子どもの生活からくる興味に適した環境をつくることが強調されています。
”保育者は子どもを前にしてから動き出す者ではない”
こういった保育者のあり方が、「生活を生活で生活へ」とつながっていく。
掴みどころがなく、スッキリはしないかもしれませんが、ここに向き合って探究していくのが、保育のプロとして必要な姿勢であり感性なのかなと思います。
ー第19回に続くー
[参考文献]
・倉橋惣三 「幼稚園真諦」(フレーベル館・1976年初版発行)