死の準備
気持ちかな?
と思う。
自身に対する関心が薄れ、欲が薄れゆく中で
「これもまた人生」
と程よい諦観を少しばかり前向きに持つ。そうして、過ぎ去った時間を少しだけ胸に抱き、将来という時間に背を向けねばならない。
人によって時間の進み方は違う。科学的には1年は1年でしかないのであろうけど、確実に時間というものは人によって物理的に進み方が違うと思う。
1、物理的準備
これは手間と時間がかかる。現在と推定死亡時期の資産をひとまず確定し、「おかね」を「現金資産」として「おうち」を「不動産資産」として…所有している資産を「勘定科目」に翻訳せねばならない。
次に整頓した資産を如何に継承させるか?を税法に則り現行法というルールに則った「仕組み」にせねばならない。
雑に言ってしまえば3つにわけられる。
・金融資産
・不動産資産
・法人
この3つに資産を分類して相続させる。相続対策とはこの3つへの配分をそれぞれの税率によって最適化するだけのことだ。
多少の抜け道はあるが要はこういうこと。
ちなみに個人的には法人として継承させるのが良いと思う。
日本の税金は個人にとても厳しいから。仕組み的に法人の方が優遇されているので法人で継承させるのが長い目でみても最も効率が良い。教育という観点からも。
2、やっぱり気持ちの問題
自分の死後は残った人の仕事。死は自分のものだから。
どうやって受け入れるか?
これは答えなんかない。自分で見つけるしかない。だって僕にとっては納得できる理由でも他人にとって納得できるか?は別問題だもの。
それでも敢えて言うのであれば、僕としては「これもまた人生」に尽きるかもしれない。
どれだけの偉人でも早死にすることもあれば奇跡的な長命の普通の人もいる。
「時間」の概念ってとても人工的かな?と最近思っていて、自転周期と公転周期から客観性を持たせて誰にでも平等な時間というもの。
でも、時間の進み方には大きな違いがある。物理的に早く動くものには時間はゆっくり流れる。体感的にも楽しい時間は早い。
これって、「自分」にとっての時間の流れは他と違うってありえるんじゃないかな?と。実際に内蔵年齢やら肌年齢やらも人によって違う。50歳の人でも30歳の人もいれば60歳の人もいる。
それって、実年齢は30歳であり、60歳と言ってもいいんじゃない?
仮に寿命の定年があったとして、それぞれ5歳でも100歳でもそれぞれの時間で定年だったのかもしれない。事故は別にして。
そして、さっきも言ったけど、どれだけ歴史に名を残す人でもどんな金持ちも皆、死ぬ。
自分は膨大な時間の流れの砂の一粒でしかなく、繰り返されてきた生命の営みであり、瞬間でもある。
憂いなく死ねる人も皆無であれば、その想いは特別ではなく、人が持ち得るべき普遍的な想いだろうと。
と、すればやはり「これもまた人生」
我執も未練も妄執もその時には全て消え失せ、残った者もいつかまた心から笑う。そしてその者もいずれ消える。過ぎてしまえば5分前も50年前も同じく一瞬だ。
露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
あぁ…そうなんだろうな〜と最近思う。
思い残すことなく死ねるか否かには社会的名声や富貴とは別のものだろうなと。
ジョブズの言葉とされている言葉もネットに出回ってるから目にしたことあると思う。
自分自身なんて何の価値もないんすよ。産まれてきた目的もなければ意義なんてものもそもそもない。
人に価値はそもそもない。虫ケラと同等。
でも、社会的生物として家族に頼りにされていたり、仕事で他人に頼られていたりすると話は別。
人そのものには価値がなくとも他人からみて価値があればそれが価値かなと思う。
人の価値って他人によって「つけてもらう」ものだと思う。
そこを見誤ると自己承認欲求の沼にハマったりする。
他人から見て価値が高い人ほどお金が集まるのも道理でしょ?
稼げない人は価値がないから。価値を生み出してないから。
話はそれたけど、そもそも無価値な自分。幾人かにでも必要とされたら充分で、そこに目を向けると「これもまた人生」と受け入れられる気がする。
うちの母は類まれな人生を過ごしてきて、類まれな人格を持っていると思うけど、世間的には全くの無名だ。
場所と時を得たらなにかしら成せたかもしれない。客観的に見てほとんど良いことなんか無かったんじゃないか?と思うけど本人はとても明るくサバサバしてる。僕という子どもが完全に自立したのを見て肩の荷が降りたそうだ。その母がよく言っている「これも人生」
だからそうなんだと思う。諦観や絶望感を持った人しか達観はないと思う。
きっとその時を迎えるための必要な時間。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?