抗精神病薬からの脱出と副作用について。その2
前回の続きです。
※前回の記事を書いた後、重要な病気の発症のキッカケとも言える出来事を思い出しましたので追記します。
前回、高校では何もなかったかの様に書いておりましたが恐らく自分でも消したかった記憶なのでしょうね。重要な事を思い出しました^^;
それは、私は今現在も尚右手の親指が曲がらず不自由な状態なのですが、その原因が高校1年生の時の体育のバレーボールの授業中に起きたある事件が原因でした。私の学校では他のクラスの生徒と合同の授業でその時に運動音痴な私はいつも足手纏いな感じでしたが、全く見ず知らずの同級生が練習のペアになりその子が実はバレー部のエースでスパルタとも言える様なスパイクを何度も受けた際に親指の靭帯を切断してしまい、人工の靭帯と金属を入れる大手術を受けた挙句に手術をした医師が新米の医師でミスをして神経を巻き込んだまま接合してしまい再手術をしても90%元通りにはならないと言われる指になってしまいました。そして、右利きだった私は無理に左利きの練習を始めテストも時間がかかる為一人だけ別室で受けるようになりクラスでも空いた存在となっておりました。恐らく、そのストレスが発症の引き金にもなったと思います。今考えると、相当のストレスが掛かりキャパを超えていたのが目に見えますね……汗
そして、当時高校1年生だった私は親が離婚する事になり退院後には母に引き取られる事になりました。そもそも、当時の精神科では長期の入院が出来ず退院あるいは転院という形で私は引っ越しもありましたので退院する事となりました。
母は、昔からとても働き者でちょっと病的とも言えるほどの潔癖症と貧乏性で毎朝3時に起きては掃除を始める様な人間でした。そして、二面性があり正気の時は私の事を猫っ可愛がりしており、あまりベタベタされるのが嫌いな私が少しでも態度で示してしまうと鬼の形相に豹変するという感じでしたのでいつも怒らせない様に気を張っていました。
離婚してから母は、駅の売店で働いておりましたので朝はコンビニで買った私の朝食と昼食を用意して早くに仕事に行き、私は母が帰ってくるまで家で一人でした。時々、福祉の方が私の様子を見に来て下さりましたが正直この時の記憶はあまりなく、毎日寝て起きて時々パソコンをいじっての繰り返しだったと思います。そして、学校にはまだ在学しておりましたので高校2年生になり学校からも一度登校してみないか?との連絡があり、私は勇気を振り絞り一度登校をしてみました。その時は、薬の副作用で呂律も回らない状態でしたので私はクラスには行かずに直接保健室に行くという事でしたが、それだけでも壁を伝って歩く様な感じでした。しかし、それを最後に二度と登校することはありませんでした。その後、症状が悪化してしまいこれ以上の通学は無理だと判断されてしまい、元々2年生までの単位は取っておりましたが高校2年で中退という形になりました。
私には、元々夢がありました。大学で大気物理の勉強をして研究者として仕事をする事でした。しかし、大好きな物理や地学の勉強すらも出来なくなり、辛くて悔しくて泣いてばかりいました。でも、ある時にもう一つ小さい頃から夢だったナレーションの勉強ならこの状態でも出来るかも知れないと思い、少し調子の良い時に調べてナレーションの専門学校のオーディションが開かれている事を知り母に言って受けることにしました。呂律は、その時には薬の量も少し減っており若干舌ったらずなくらいでしたので母も承諾してくれて一緒に付き添ってくれました。
そして、オーディションを受けて無事合格をして私は晴れて専門学校に通う事となりました。入学費は、母が肩代わりしてくれて私はその時は少しずつ症状も安定しておりましたのでバイトを始める事にして返す事にしました。新たな生活の幕開けです!これからは新たな夢に向かって踏み出そう!そう意気込んでおりました。
そして、専門学校に行くとそこでは週に2回ほどの通学でOKで私が一番最年少で皆優しい人ばかりでした。発声の練習、演技の練習とどれも新鮮な事ばかりで体を使う事が主なのでそこまで苦ではありませんでした。
ですが…………再び『副作用』という魔の足音が近付いてきておりました。
ある日、私はいつも通り電車で専門学校へ向かう途中に急に前が見えなくなりました。
それは、眼球が上に行くというとても稀に起こる薬の副作用でした。眼球が真上を向いてしまい歩けないのです。そこで、周りの人もびっくりしてしまいますので一先ず途中駅で降りて片手で目を隠したまま何とか下を向いて家に戻りました。暫くすると、症状も収まりましたがそれは頻繁に起きる様になりその日は学校を休みましたがそんな状態では授業も受けられず、病院の先生に相談したところ眼球が上に上がるのを抑える薬を出して貰いましたが一時的には治りますが薬が切れたり感情が昂ぶると上を向いてしまい泣く泣く専門学校も辞める事となってしまいました。
しかし、入学費は取られているので二人暮らしで貧乏なの私がバイトをするしかないと思い今度はバイトを探し始め、薬を飲みながらも様々なバイトの面接を受け、働いては仕事を覚えられずに苦難しながらも転々としながら続けておりました。
しかし、今度は母のメンタルが崩れてしまい毎日毎日「死にたい」という様になり、同じ病院で診察をしたところ同じ統合失調症という診断を受けましたが、母は薬を飲む事を拒否して薬を飲んだら仕事が出来ないとそのまま働いておりました。
そして、とうとう私が毎日ヒステリーに怒鳴り散らす母に耐えられなくなりその時に丁度出会った年上の恋人と共にまだ19歳でしたが同居する事にしました。正直、この時の私ももうどうなってもいいと思っておりました。夢もなくなり、右手も使えず毎日死にたいと言われ眠れずにバイト先でもいじめに合いロッカーで泣いたりする毎日。何のために生きているのか?何で私は生きているのか?幸せな未来なんてあるのか?そんな自問自答を繰り返しておりました。
しかし、そんな私をずーっと小さい頃から支えてくれる存在が居ました。友達も支えてくれる人もいない私を、物心ついた時からいつも隣に居て優しく支えてくれる親友。
それは、こんな事を書くと変に思われるかも知れませんが『妖精』の存在です。後に、自分で調べて分かったのは恐らく"イマジナリーフレンド"という良く小さい子供に存在すると言われている架空の友達の事ではないか?という推測でした。通常は、大人になると同時に消えていくものなのですが私の場合高校生になっても20歳を過ぎても存在し、心が壊れないように自らの防衛反応として存在するのだと自分なりに理解しました。
この『妖精』と呼んでいる存在は、本当に私の自我が芽生えた保育園に入る前1歳頃から形を変えながら存在する者で最初は神様と呼んでおりました。その姿も中学を過ぎた辺りからは声だけの存在でしたが昔は見えており、私の場合は小さい頃は杖を持ち雲に乗って空中に浮いた仙人のようないつも笑顔のキャラクターという感じで存在しており、その後は羽の生えた綺麗な女の子の絵に描いたような妖精という感じでした。そして、彼らは決まって私が心の中で呼ぶと出て来て、困った時や悲しい時にいつも優しく慰めてくれたりアドバイスをしてくれたり時には一緒に遊んだり、勉強を教えてくれる事もありましたが殆どは辛い時に悩みを聞いてくれる感じでした。そして、これは心から今でも思いますが私はその妖精の存在がなければ耐えられずに今ここに存在していなかったと常々思います。
そして、もう一つ良い事がありました。19歳になり、彼と共に東京へ引っ越し同棲を始めてから、私は母から離れた事により少しずつ病状も落ち着いてきて家賃も入れなければいけないので新たにバイトも始める事にしました。東京でも下町でしたので、私は昔からやってみたかった商店街の中にある本屋さんに面接を受けて無事働く事になりました。そこでは、店長も社長も60を過ぎた方々でしたが本当に良い人ばかりで最初は私も緊張で顔が硬っておりましたが、次第に打ち解けると同時に今まで忘れていた『人の笑顔が好き』という明るい気持ちを思い出し、自分自身でも忘れていた笑顔を取り戻し、しまいには本当の家族とも思える程になり、その書店は随分前に閉店してしまいましたが今でも店長とは付き合いがあります。本当にいい人達と出会えた事が私にとっての一番の幸運でした(^^)
さらに、元々彼と同居するにあたって母にも相談しており、月に1度は病院への通院の為に母の住んでいる神奈川に戻るという条件でした。そして、私も母の事は心配でしたので月に一度戻って一緒に病院に行き帰りはランチをしたり買い物をしたりと少し距離を取った事が功を制して母はその時は優しい母に戻っておりました。
しかし、母は昔から拒食の癖と偏食でもあり元々痩せていた体はストレスと疲れで更に痩せ細り合う度に骸骨の様に痩せていく母に心配になり、入院や生活保護なども勧めましたがそれでは生きてゆけない!と怒鳴り散らすばかりで手に負えず、先生にも相談して区役所にも一度一緒に行きましたが結局申請をせずに働き続けており、母は一人になったので更に引越しもして手伝いにも行き、彼の事も紹介をして一緒に旅行にも行きました。
そして、私は無事20歳を迎えて母が東京に来てくれて彼と3人で成人式には出ないので晴れ着で写真を撮る事にしました。母も彼を気に入ってくれて、将来は二世帯住宅なんていいねなんて話してもいました。
そして、20歳を迎えた年の10月。10月は母の誕生日でしたので、その月の病院の日には一緒にお祝いをしようとお洒落な母に今年はピアスと商店街で買った大好物な牡蠣の佃煮と長生きしてねという内容の手紙をプレゼントするととても喜んでくれて、カフェで一緒にケーキを食べお祝いをしました。その頃の私は、彼との仲が少し悪くなった時があり丁度キリスト教や仏教の考え方に興味があり、心を落ち着ける為にその頃には読める様になってきていた沢山の関連本を読んだり妖精から聞いた考えを纏めて悟った事がありました。
『一日一日は同じ様に見えても、二度と同じ日は来ない。そして、人は死に向かって生きている。だから、一日一日、一刻一刻を大切に生きる事が何よりも大事な事だと。そして、自分の体は魂の器で自分だけのものではなく同じ様に日々を過ごしてきた辛い思いをしてきたのだと。自分を労り、愛し、例え憎まれたとしても負の感情は全てを不幸にするので許す心を持ち、周りも愛する。このことが一番大切な事なのではないか?』と、気付いた時その時から何故か心が軽くなり全てが優しく見えるようになりました。そう教えてくれたのも、殆ど妖精の言葉でした。
でもまあ、そんな事を毎日出来たらそれこそ悟りを本当に開そうですが中々そうもいかない日もありましたがそういう風に生きたいと、常に心の中で思っていました。
そして、母と会って次の日の夜中……寝ていると見知らぬ番号からの着信がありました。そして、何だか胸騒ぎがしてかけ直すと警察の人が出ました。
「〇〇さんですか?その、どうか落ち着いて聞いてください。お母さんが今救急車で運ばれて危険な状態です……」と言われたのです。しかし、その時の私はバクバクと心臓の音が耳で聞こえるほど高鳴っていましたが何故か頭は冷静でした。「分かりました。今、東京に住んでおり直ぐに伺えないので祖母と叔母に連絡します」と、答えて震える声を抑えながらもう10年くらい連絡を取っていなかった祖母と叔母に連絡をしたのを今でも覚えています。そして、次の日の早朝始発で祖母の家に向かったところ祖母の話を聞いて少しの期待も崩れ去り文字通り頭が真っ白になりました。実際には、危険な状態というのは私の為に警察の方が言った事で母はその日一人で最後の晩餐とも言うべきホテルで夕食をとった後、予め下見して決めていたビルの屋上から飛び降りて即死だったとの事でした。つい先日会った時には特に変わった様子はなく、偶に私に母の古い洋服などもくれていたのでその時もいつも通り服の入った袋をくれていましたが前から欲しがってもくれなかった服が入っていたのを少し疑問に思うくらいでした。そして、母の亡骸に警察署で会いましたがここは私がしっかりしなきゃ!と涙を見せず葬儀の手配や喪主の務め、保険の解約や会社への連絡など殆ど全てを一人でこなし、葬儀の時に親戚や祖母や叔母からとてもしっかりしていると褒められた事を覚えています。正直、泣いている暇なんてありませんでした。離婚したいから一度も会っていなかった父にも一応連絡を取り、とにかく忙しくて全てが初めての事ばかり。昔、冠婚葬祭の類に一度も関わったことがなく母に「一度どちらかに出てみたいなー」と話していた事を思い出し、まさか初めて出るのが自分の母親の葬式になろうとは本当に悪い冗談じゃないか?と思いました。
長くなってすみません!その3へ続きます!