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わし流 にいがたブラタモリの旅 その5 「亀田砂丘の遺跡 〜奈良・平安時代編」

これはスゴいッッ! 見よッ、江南区の奈良・平安時代の遺跡発掘マップを。亀田の域を越えて江南区全域、赤点だらけだよッ!

奈良・平安時代の遺跡の発掘地点

……っと、なんか「赤点だらけ」というワードには、高校時代いい思い出がないせいかビクッとしてしまうな…

ま、それは置いといて、この時代になると亀田は大和政権によってどんどん開拓されていったという。そして平安時代になるとこんどは有力貴族や寺社が開発していくのである。

まあ詳しくはようわからんけど、この時代から新潟は発展し始めていくということだな、うん。その他わからんことは、またいずれ調べたい。

とにかくこの時代の土器やらなんやらが亀田の域を越えて、江南区のいたるところから発見されるという……まさに江南区は「遺跡のディズニーランド」じゃないかッ! 目指せッ!全アトラクション制覇ッッ! ワシ、大・興・奮ッッ!!

「亀田はロマンだッ✨」

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奈良・平安時代の江南区亀田

スゴいぞ亀田ッ!この時代から亀田の発展、いや新潟の発展が始まったんだな。

渟足柵(ぬたりのさく)ってなによ、大和政権って? 中央集権国家って? 律令? 有力貴族ってだれ??

わからんことだらけで大・興・奮ッッ! 調べがいがあるわいッッ!

小丸山遺跡

小丸山遺跡(こまるやまいせき)。直り山付近。ここからは掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が見つかる。

掘立柱建物とは地面に柱を立てた建物。竪穴住居も掘立柱建物ではあるが、竪穴住居は地面を掘って地下に床を造るが、この時代の掘立柱建物は地表がそのまま床になる。

この奈良・平安時代から、この掘立柱建物が全国的に広まったという。なぜ広まったのか。それはこの時代になると渡来人との交流がさかんになったからだという。

渡来人によって大陸文化が国内に入ってきた影響で、日本の建築技術が高まったこと。そして穴を掘った竪穴住居より、掘立柱建物としてしっかり建造物を建てたほうが立派に見えることだとか。

日水遺跡

日水遺跡(ひみずいせき)。亀田の日水付近。日水は自宅の近所だよッ。うちの近所に平安時代の遺跡が見つかったとはッ。

しかもこんな「井戸底の曲げ物」って。いやなに、これって腐れないんだろか。ブラタモリでは、古代の遺跡でも水に浸かっていると腐れないって言ってたけど、これ、水じゃなくて泥だよ??

専門家の人に訊きたい……

(注釈)後日、遺跡の講座で専門家さんに、なぜ木は腐らないのか訊いてみた。すると地中に水があると、バクテリアが必要とする酸素がその水によって遮断されて、木が腐らずに残るという。

ブラタモリで「酸素に触れずに水に浸かっていると腐らない」とあったので、ワシは「水中にあると腐らない」と解釈していた。

ところが専門家さんの言うには、乾燥した土では酸素が通っていくので腐りやすくなるが、泥や粘土といった水分を含んだ土の中ならば酸素が遮断されて腐らないという。

大淵遺跡

大淵遺跡(おおぶちいせき)。大淵付近。いやマジでね、大淵、直り山、茗荷谷付近って今でも田んぼが広がってるけど、あの田んぼの下には、まだまだたーっくさんの土器やら何やらが眠っていると思うんだな、うん。

牛道遺跡

牛道遺跡(うしみちいせき)。曙町付近。亀田バイパス曙町付近の下なんだな。ここは亀田砂丘の裾野にあたるのかな? いやはや、こうして見るとマジで亀田、遺跡だらけだよッ

駒首潟遺跡

駒首潟遺跡(こまくびがたいせき)。下早通柳田付近。ここはあのイオン新潟南のむかえあたりだな。ちょっと気になったのが説明文に、「旧河川」「船着き場」とあるけど、あそこ、大昔は川が流れてたのか??

駒首潟遺跡とCGで再現した駒首潟遺跡

住居が竪穴式住居から掘立柱建物に変化している。そしてこの時代、イオン付近ではなんと川が流れてたようだな。どこから流れてたんだろ??

斎串

祭祀(さいし)に使われた斎串(いぐし)だそうだ。まじないの道具のひとつで、「神聖な木」として水辺や井戸にさして使うらしい。水辺にさすのは稲の豊作祈願。井戸にさすのは水が湧き出るようにという祈願だそうだ。

今でこそ水なんて蛇口をひねればいくらでも出てくるが、古代の人びとにとって得られる水の量は気候や天候などに左右されるもので、欠乏する可能性もある大事なものだったんだな。

たぶんこんな感じ??

川や井戸はないけど……


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