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Want To とは責任のことです

発達支援の現場の現状を伺うと、
社会の歪みが親を通して子供によせられていることがわかる。

子供のパーソナリティが、
規定のプログラム上では社会に適応できないことがわかると、
親は社会の無知蒙昧で粗雑な部分と、
それに適応できない子供の板挟みになって苦しむ。

発達支援を装った金儲けでは、
この親の苦しみを安直に軽減し、
知らない間に遺棄させる方法を提供する。
つまり子供の好きなようにさせる。
結果全く社会に馴染めない子供を育てながら、
最後には全ての責任を遺棄して、売り抜けるのである。
後には社会から孤立しモンスター化した親と子が残る。

映画にもなった劇画「ファブル」には、
宇津帆という最低の悪人が登場する。
(映画では堤真一さんが熱演した)
弱者支援活動を展開をするふりをして、
保護者の責任意識をどんどん軽くし、
機能不全の弱者をどんどん増やしてゆく。
当然子供は問題を起こすようになってくるから、
それを見て見境のなくなった親を追い込み、
罠にはめ、ゆすりの材料にして、
親から金を搾り取るのである。
宇津帆という存在は象徴的で、
現代日本が子供にとっている態度の縮図にも見える。

IQを高めていけばわかることだが、
人間の自由というのは、
本来は他者の自由の中にしか存在しない。

他者の自由を担保するのは、自己の責任である。

過去に危険地帯への単独渡航が問題になり、
自己責任論が高まったことがあるが、
これは責任を取らない国家運営の、
結果として起こったことであり、
渡航した本人ばかりでなく、救出に当たった人の命まで、
危険に晒した責任は、決して本人だけにあるわけではない。

しかし、国家的機能不全を、
助長するためにあるとしか思えない各メディアは、
主流から逸脱した行動をとった本人たちを一方的に責めるように、
国民全体をリードし、一層の愚衆化を進めた。

この時から、というわけでもないだろうが、
「自己責任」という言葉はもっぱら、
「自己責任を押し付ける側の責任の放棄」
に使われるようになった。

その因果が発達支援にも波及しているが、
正しい支援法は必ずある。

子供の自由を育てるということは、
そのまま大人の責任を育てるということだ。
それは親に限らない。
全ての大人が共有するべき問題である。

私たちには責任を取る自由があるのだが、
自由とセットで責任も売り渡してしまった社会が、
今の日本の姿と言える。
与えられているのは快適な牢獄であって自由ではない。

フランクルの言葉から引こう。

「牢獄とは、永遠の仮」

そこには自由がない代わり、責任もない。

自然の摂理として、群れが異変をきたすほど、
生まれてくる子供はさらに包摂的な変化で、
群れ全体の健全性(人間社会においては責任能力)を、
試そうとするはずだ。

つまり希望は常にあるのだが、
大事なのは私たちが何を選ぶかだ。
それにより私たちは必ず、包摂的に全てを解決する。
与えられた自由だけを選んでいる状態は、
実は何も選んでいないのと同じことだ。



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