初めてのフルマラソン(予行練習)④…なぜ僕は走るのか

川沿いの道。

生い茂る草むらに挟まれた粗末なアスファルト。

僕が走るのはそのアスファルトの真ん中ではなく、左右どちらかの端っこだ。後ろから駆け抜けるランナーや自転車の邪魔にならぬように、できるだけそうしている。

そのあたり。草むらとアスファルトの境界から30cmほどの地帯。なぜかそこにはバッタやカマキリがいる。まるで踏んでくれと言わんばかりに、ちょうど僕の走るゾーンに彼らは堂々と、いる。

「おう? やんのか? 踏めるもんなら踏んでみろや」

彼らは僕に対してとても挑発的な感じだ。でも、そんな彼らをいちいち踏む余裕はないし、そうしようとしたって、すんでのところで彼らは器用に飛び跳ねて避けてしまうだろう。

しかし道には、踏み潰されたバッタの死骸も結構ある。彼らはどのようにして踏み潰されて死んだのだろう。猛スピードの自転車のタイヤを避けきれずに踏まれたのだろうか。

多くの仲間がそうして目の前で死んでいるのだから、アスファルトに出てくる危険性をもっと仲間内で共有すべきだろうに。草むらから出てこなければいいのに。しかし彼らは、そんな危険を知ってか知らずか、やはり挑発的に、美しく反った背中を僕に向けてくる。その背中に小さな子どもを乗せた者もいる。

「なんや? 踏むんか? 踏みたきゃ踏めや、おう?」


やはり同じゾーン。アスファルトの端から30cmあたりのところに、みみずがいた。みみずは左から右側へと伸縮しながら少しずつ動いていた。彼は左の草むらから出てきたのだろう。そして、右側の草むらを目指しているようだった。

なぜ、わざわざアスファルトの上を、危険を冒してまで進むのだろうか。右側の草むらに移動したところで何が変わるでもなかろうに。辿り着ける保証などなく、むしろ踏まれたり干からびたりするリスクの方がよっぽど高いだろうに、なぜ。

僕はそんなみみずを、なんとなく僕みたいだ、と思った。


自分を変えたいと思って走る。

気づけば38歳になっていた。アラニス・モリセットの『Ironic』が流れる。僕が高校生のころの曲だ。あのころ僕は、何でもできると思っていたし、何にでもなれると思っていた。そこに何の疑いもなかった。

小さなころから「あなたはやればできる子なのに、どうしてやらないの?」とよく言われた。やればできると知っているからやらなかったのだ。僕はやればできる。いつでもその気になればやれるんだ。やるのは、いつだっていい。今でなくとも。

何でもできるはずの自分が、何も成し遂げられないまま38歳になっていた。

おかしい。もうそろそろ、なにかを大成しているころじゃないのか。確かにあのころの自分は何でもできる自信と、それに見合うエネルギーとを持っていた。なのに、いつでもできると先送りを続けた結果、何もできずに無駄に若さを浪費してしまっていた。

せめて一矢、報いたい。

自分を変えたい。やればできる子の、できるところをきちんと証明したい。僕を信じて誇らしく感じてくれていた大人たちに、「ほらね、やればできるでしょ」と見せてあげたい。「うん、確かに君は、やっぱりやればできる子だったね」と言われたい。

底なしの承認欲求が、僕の主な成分だ。

すごいね、素敵だね、と褒められたい。だから僕は走るのだろう。それはヨコシマな理由なんだろうか。ランナーとして動機が不純なんだろうか。

変わりたい。変わりたいというか、元々持っているはずのすごい自分、できる子な自分をきちんと証明したい、そう言った方が正しいのかも。

フルマラソンのようなわかりやすい「すごい」に挑戦するのは、僕という人間の強い承認欲求を満たすのにもってこいだからなのかもしれない。そうでない部分もあるかもしれない。よくわからない。

次の日曜日はいよいよつくばマラソンだ。そういう問いかけを頭の中でぐるぐると繰り返しながら走るだろう。余計なグリコーゲンの消費だ。糖分は多めに準備しておこう。

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