「主人公」になりたかった私の話


主人公の方程式

 ゲームにおける「主人公」というものは、何故だか知らないが歩くスピードが異常に速い。

 名もなきNPCたち・・・ノロノロと歩く、というよりはむしろ這いずるようなスピードでどこへとも無い無為な移動を続ける彼らの間を、しかし彼らを一瞥もせずスイスイと闊歩する主人公。ゲーム画面を眺める私に電流が走った。これだ、と。

 何を隠そう、私は何かの「主人公」になりたかった。いや、今でもそうだ。私は主人公になりたい。

 その為ならば(無理ない程度で)いかなる努力も惜しまないし、(常識的な範囲で)何だってやってみせる。そう思えるほどに、私の「主人公」に対する羨望は強かったのだ。

 当時の私は幼く、無邪気で、そして中二病を発症していた。

“主人公=歩くのが速い”

 何はともあれ、私のツルッツルな脳ミソの内に組み上げられたこの公式は、瞬く間に根を張り、葉を広げ、大樹となりて私の思考の大部分を覆いつくした。

「主人公は歩くのが速い主人公は歩くのが速い主人公は歩くのが速い主人公は歩くのが速い主人公は歩くのが速い・・・」

 授業中はこの天啓をノートに沢山書き込み心身の奥底まで染み込ませたし、私が部長を務めていた卓球部では部長命令で足腰を中心としたトレーニングメニューを異常なまでに増やしていった。

 自宅では四六時中つま先立ちで過ごし、寝る前には足の親指の握力を鍛えるトレーニングを欠かさず行った。


 そうして数カ月。私は順調に「主人公」への道を歩み続け、事実その心身は確実に「主人公」へと近づきつつあった。

 地元で歩けばまず私に敵う者は無い。中心街の方へ出向いた際だって、精々で1日に数人、良い勝負が出来るか出来ないかといった若いサラリーマンとかち合う程度。

 まさしく当時の私に敵は無く、10代のしなやかさを存分に生かし艶のある歩行を実現した私の肢体は自信と筋肉のみで構成され、道行く強者たちをバッタバッタと抜き去っていたのである。

 そう、紛れもなくあれは私の絶頂期であった。



唐突に訪れた転機

 全てが順調に進みつつあったある日、私に転機が訪れる。

 それは冬の家族旅行。行き先は札幌・・・そう、「都会」である。

 一目見ただけでは何階建てかも分からぬような高層の建築物が、裏庭の雑草が如く生え茂っているその様に、ただの田舎者でしかない私などは圧倒されっぱなしであった。

 余談だが、当時の私のおやつは、その8割が炒り豆と干し柿で構成されていた。とりわけ炒り豆は、母お手製の巾着袋に詰め込み四六時中持ち歩くほどのハマりっぷりであった。まさしく田舎者という言葉を体現したような少年である。

 ともかく。

 私の行動圏、つまりは当時の私が知りうる地元の「街」と比べて、SAPPOROは余りに街としての格が違った。活気、建造物、空気感・・・その全てに圧倒されっぱなしであった私の側を、突如として黒い影が掠め去ったような気がした。

 ハッとして見やれば、そこには黒装束に身を包んだサラリーマンが1人。男性。中年。

 地元であれば脅威にもならぬそのNPCを抜き返すべく両の脚に力を込めた私は、しかし、すぐに違和感に気付くこととなる。

 いくら足を回しても、距離が縮まらないのである。否、それどころか中年サラリーマンと私との間隔は一歩毎にじわじわと広がりつつあった。何が…なにが起きている!?

 汗と焦りを滲ませる私の背後から、更に悪夢が襲い掛かる。その絶望は、デニムのタイトスカートと黒のニーソックスを履いていた。ピッチピチのデニムから生えた長い脚を、まるでコンパスのようにクルリクルリと回して軽々と私を抜き去ってゆく彼女の姿に、私は生まれついての「主人公」としての素質をみた。

 立ち止まり俯くと、不格好なほどに短い私の両脚が視界に入る。本当に自慢にもならない話ではあるが、私の座高は学年でも一、二を争うほどの高さ。この両脚をいくら鍛え上げ、死に物狂いでブン回したとしても、恐らくあの女性には一生叶うことはないだろう。

 私にははっきりとわかってしまった。

 そう。主人公=歩くのが速い ではない。主人公=脚が長い 、これこそが真実であったのだ。やはりこの世界は、残酷なまでに生まれ持っての才能がモノを言う・・・。私がひとつ、大人への階段を昇った瞬間でもあった。


 この日、私の性癖に「美脚」「デニム」の二項目が書き加えられた。



達観、そして新たなる挑戦

 いまや10代のしなやかさを失い、ただのインドアオタクと化してしまった私ではあるが、しかし今でも一人でいる時の歩行速度はそこそこのものであると自負している。右に左にと通行人を抜き去る快感は今でも感じているし、何より移動時間が短縮できてよい。

 とはいえ、とりわけ鍛えている訳でもスポーツを続けている訳でもない私の歩行速度など、いくら頑張ったところで程度が知れている。

 先ほども喫茶店から駅へ向かう道すがら、私など歯牙にもかけぬほどの恐ろしい速度で悠々と通行人を抜き去っていくスーツ姿の女性を目にした。非常に悔しい限りではあるが、恐らくあの速度は全盛期の私にもまず出せないだろう。

 脚にブースター機構でも搭載してるんじゃなかろうか?久しぶりにあんなに早く歩く人を見たかもしれない。

 恐らく彼女は「主人公」なのだろう。羨ましい話だ。


 完全に蛇足ではあるが、これまでの私の歩行バトルの勝敗から見えてくる傾向について少し。

 平均の歩行速度という点では圧倒的に男性の方に軍配が上がるのであるが、世界を狙えるレベルで飛びぬけた速さを見せるのはいつも決まって女性、それもパンツスーツ姿の若いプレーヤーである。

 少し調べてみると、10年以上も前の研究ではあるものの、健常若年成人の歩行速度に性差は認められないとする論文にいくつか行き当たった。

 身体的性能において、とりたてて大きな性差が無いとするならば・・・あれだけの恐ろしい速度を見せる彼女らは一体どれだけの鍛錬と覚悟を以って歩行にあたっているのだろうか。



閑話休題。

 主人公になりたかった私は、あの日、世界の広さと現実の厳しさにぶち当たり、心を折られてしまった。しかし私は、主人公になること自体を諦めた訳ではない。

 別に速く歩くだけが主人公ではないのだ。数多くのラノベとマンg・・・もとい文献を漁るうち、私はついに『主人公は自慰を行わない』という新たな事実を突き止めた。

 そう。古今東西、どの作品の「主人公」を見ても、彼らが自慰を行っている描写は存在していないのである!これは世界を揺るがすほどの偉大な発見であり、私はその日のうちにオナ禁を開始した。

 「主人公」となるべくオナ禁活動を始めてはや1年近くが経過しようとしている。私は今日、通算283回目となるオナ禁失敗の事実に直面することとなった。

 現実は厳しい。