育ての母 おばあちゃん

今回は「大切な人」について。今でたくさんの人に助けてもらって生きてきて、大切な人は、友達・お世話になった先輩・家族等たくさんいるんだけど、今回はもう会えない私のおばあちゃんの話をここに書き残していこうと思う。

①母親代わりとしての存在

60歳くらいから私を育ててくれたおばあちゃん。私は人見知りで泣き虫で物覚えが悪い面倒臭い子供だったし、周りは若いお母さんばかりなわけでその中で育てるのは気苦労が多かったと思う。私の存在がなければ悠々自適な老後が送れたかもしれないのに、育ててくれたのは申し訳ない気持ちと感謝でいっぱい。

おばあちゃん亡き後に、再現したいが出来なかった料理がいくつかある。覚えておきなと隣で調理を見せてもらっていたが、物覚えが悪すぎるのとその時は覚える気がなかったのかもしれない。実際に作ってみると同じ味にならない。
具沢山の味噌汁、きゅうりのキューちゃんづけなどの漬け物、うどん蒸し(お椀で作った大きな茶碗蒸しにうどんを入れたようなものです)等々…。
これからも再現チャレンジ頑張りたいです。

②親族の大黒柱 

うちは親族で集まるときには本家になる我が実家に集まることが多い。祖母も祖父も元気だったときは、年末に親族が集まって餅つきをしたり、お正月やお盆に親戚が挨拶に来てくれたり従兄妹が泊まりにきてくれていた。
おばあちゃんは四人姉妹の長女で、お葬式などの親族が集まる行事で仕切ってくれたりその場の空気を取り持ってくれたのはおばあちゃんだった。
今でも法事や年始・お盆に親戚が来てくれることがあるが、おばあちゃんがいた時は耳が遠かったおばあちゃんの近くに話をみんなが寄って、話を聞く。間を取り持ってくれていた。今は集まっても私も父も口下手なので、なんとなく空気がバラバラ。間が持たない感じがする。父が話題や用事を持ってきて頑張ってくれているが。
おばあちゃんには周りの空気を和やかにする不思議な力があった。

③生命力の強さ

おばあちゃんが病気になる前は、100歳まで生きるんじゃないか、不死身なんじゃないかと思うほど、身体が元気で頭もしっかりしていた。80歳を越えても家事をこなし自転車で買い物に行く。
足を悪くして一度入院してからは自転車に乗れなくなった。それでも杖をついて歩いていた。
それから大きな病気が分かって、だんだんご飯が食べられなくなって、弱っていくおばあちゃんを見るのは心が痛かった。父となんとか食べられるものを試行錯誤してミカンの汁をしぼったり贈答用の小さい缶ジュースがたくさん入ったセットを買った。ゼリー状の栄養補助食品も買ったけどあんまり美味しくなかったみたい。
病気になってからもお医者さんが驚くくらい長く生きてくれた。
病床でもガラケーでメールを打ったり電話をしたり間違い探しやぬり絵をしていた。本当に最後一週間くらいは話すのも辛そうだったが、ぎりぎりまで頭がしっかりしていた。


④クリエイターおばあちゃん

若い頃は、病気で外に働きに行けず(その後は元気になる)自宅で内職をしていたおばあちゃん。着物を作っていた。
着物を作るほど器用なおばあちゃん。色んな手芸作品にチャレンジしていた。
アイロンビーズや折り紙のつま楊枝入れ、帽子型のマグネット、毛糸の靴下など、大人の塗り絵など、おばあちゃんの作品がまだ実家にたくさんある。
誰かに見てもらえたらいいのにと思っています。
父と祖父は大工だし祖母は手芸・工作が得意。実はクリエイター一家なんです。なんて。
私は手先が不器用なので、せめて文章や物語を書くことは続けていけたらいいな。


今回は私のおばあちゃんについて。読んでいただきありがとうございます。

おばあちゃんに関するエピソードはまだまだたくさんあるので、今後も書いていきたいです。
今の唯一の家族、父について、私のもうひとつの夢について28日目に書くつもりなので、お付き合いいただけると嬉しいです。


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