姉ちゃんにありがとうを込めて
(教養のエチュード賞に応募します。日頃noteに書いている姉のことを、改めて書きました。姉にも届くように)
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小さい頃は姉ちゃんが嫌いだった。
2人姉妹で1歳差、顔もソックリなのに
目覚まし時計や文房具を買ってもらうのは姉ちゃんが先。
入学式だとか何かでお祝いをもらうのも姉ちゃんが先。
洋服もお下がりばかりだから母に文句言ったら
「あなたが妹なんだから仕方ないでしょ」と言われるし
甘えん坊で泣き虫な私に比べて姉ちゃんがしっかり者だから
私ばかり怒られて、姉ちゃんなんかいなければいいのにと思っていた。
でも大人になってお互い結婚して家庭を持つようになってから
私にとって姉ちゃんは、誰よりも頼りになる存在に変わっていった。
私が精神的な病気で、ボロボロだった時。
「どうしてこうなる前に姉ちゃんを頼ってくれなかったの?こんなに大事に思ってるのに」って
泣く姿を見せたことのない姉ちゃんが、初めて私の為に泣いてくれて。
それから、2人でいろいろ話すようになった。
幼い頃、複雑な家庭で育ったからこそ感じてきた生きづらさについて。
あの時こんなことが辛かった悲しかったと話す私に対して
姉ちゃんのセリフはいつもこうだった。
「姉ちゃんはそこまで思わなかったよ、そりゃ精神も病むよね」
「姉ちゃんは、そういうことは仕方ないって思ってたよ」
やっぱりしっかり者の姉ちゃん。
私の心は姉ちゃんのおかげですっかり元気になり
姉ちゃんとの、姉妹としての人生も楽しみたい!と思うようになった。
そんな矢先、姉ちゃんが乳ガンになった。
姉ちゃんが35歳の時だった。
それまで常にポジティブ思考だった姉ちゃんもさすがに心が折れるんじゃないか・・・と心配する私や家族をよそに、姉ちゃんは今までの「しっかり者のお姉ちゃん」でいることを続けた。
姉ちゃんは周りを笑顔にするのが好きなのよ。だから乳がんのことは周りに言わない。治療してツラい姿を見せるよりも、治った後に周りに勇気を与える存在でありたい。
そう言って、姉ちゃんは手術も抗がん剤治療も、髪の毛が抜け落ちたりすることにも全て耐えた。
でも、ガン細胞は意地悪だった。
それから二度も再発を繰り返し、2年後、肺に転移したのだ。
「遠隔転移したら、完治は厳しいかもしれない。悪い報告しかできなくてごめんね」
私たち家族に向かって冷静に告げた姉ちゃん。
私は、姉ちゃんを泣かせてあげられないことがとても苦しかった。
その頃から少しだけ、姉ちゃんが私を頼ってくれるようになった。
今まではずっと聞き役だったのに、私に本音を話してくれるようになった。
小さい頃、やっぱりちょっと無理していたこと。
素直に甘えられる私のことを羨ましがっていたこと。
「ガン」という病気に本当は怯えていること。
そして姉ちゃんが、今までで一番信頼できる先生のもとで治療することを決めて遠方の病院に行く時、私に付き添いを頼んでくれた。
私はそれがすごく嬉しかった。
***
主治医の先生が、現状を告げた。
正直、10年の延命は難しいです。あと5年かも分からないし、もしかしたら1年かもしれない。だから治療方法も日常生活も、ひとつひとつ自分がしたいことだけを選んで、身体が元気な時は旅行もして、楽しく過ごしていってほしい。
姉ちゃんはその話を聞いた後、私に問いかけた。
「何か先生に聞いておきたいことない?」
その時、何を言うのが正解なのか分からなかったけど、今までずっと聞きたくても誰にも聞けずに悩んでいたことを正直に尋ねてみた。
妹の私にできることはなんですか。今までずっと姉がしっかり者で頼ってばかりだったから、どうしてあげたらいいか分からないんです。
先生の答えは、意外なものでした。
今まで通りでいいんですよ。今までずっとしっかり者のお姉さんだったなら、そのままのお姉さんでいさせてあげてください。
お姉さんは、身体はガンになったけれど、心までガンになったわけじゃないんです。お姉さんらしさだけは、ガンにとられないで。
お姉さんは病院では、子どももいるのに負担をかけている妹のことが気がかりなんですっていつも私達に言ってるんですよ。
だから今まで通り、お姉ちゃんを頼ってください。
で、お姉さんがしんどくなった時だけ素直に妹さんに甘えたらいい。ね。
姉ちゃんが泣き出して、先生に何度も「ありがとうございます」と言った。
私もそれを見て泣いた。
帰りの飛行機の中で、姉ちゃんは小声で私に話した。
こんなこと言うのは不謹慎だけど、もし今この飛行機が墜落したらすぐに死ねる。そこには転移の恐怖も抗がん剤の辛さも選択する苦労もない。
姉ちゃんは、死ぬのは何も恐くない。ただ、自分の死に様が恐いのよ。
ガンが進んだら、絶対いつかは今まで普通にできていたことができなくなる。歩けなくなって、しゃべれなくなって、、、そういう姿を家族に見せることを考えるとそれが苦しくてたまらない。。。
そう言って、少しだけまた泣いた姉ちゃん。
姉ちゃんは、ガンになってからそれまでずっと、笑顔を絶やさずに生きてきた。
本当にガンなの?抗がん剤治療中なの?って信じられないぐらい
病気でない私よりもはるかに明るく元気に見えた。
身近な周囲に打ち明けたのも、治療から1年半以上たってからだった。
ずっと苦しみを1人で抱えていた。
姉ちゃん、ここからはもう少し、私を頼っていいよって心の中で思いながら
それでも私は、姉ちゃんが「私のお姉ちゃん」としていたい限り、その間柄でいようと覚悟した。
****
この飛行機での旅から1年が経った頃、ガンは脳にまで転移した。
そしてついに姉は、自らの余命を主治医の先生に尋ねた。
付き添いも誰もいない時に、たった1人で。
離れて暮らす私のもとに、いつもより静かな声で姉ちゃんから電話がきた。
「今、電話大丈夫?」
「どうした?」
「今日の診察の時に思い切って余命聞いたのよ。そしたらね・・・。
もって2ケ月。普通に話ができるのはおそらく3週間だって・・・。」
言葉が出ない私に向かって姉ちゃんは話を続けた。
「ごめんね。話すかどうか迷ったけど、あんたには心の準備しててもらいたい。旦那はもちろん姉ちゃんがいなくなったら立ち直るの大変だし、お父さんとお母さんも娘が亡くなったらショック受けるだろうし・・・今、一番頼れるのはあんたしかいないんだ」
「うん、わかった、話してくれてありがとう。でも。。。」
「姉ちゃんね、自分の人生満足してる。39年って短いのかもしれないけど、病気になってから特に、毎日後悔ないように生きてきたから。だから、若くで死んでかわいそうなんて思わないで。ただね、姉ちゃん、あんたを置いていくのだけが心残りなのよ・・・いろんなこと全部あんたに背負わせてしまうことになるけど、ごめんね・・・」
そう言って電話口で、姉ちゃんは泣き出した。
***
残された時間がわずかと分かり、私はどう動くかを考えた。
考えるも何も、残り60日、姉ちゃんと一緒にいたい気持ちが強かったので
3人子どもがいるうちの1番下の子だけを連れて、姉ちゃん夫婦の住むところに滞在することにした。
その時にはまだ、あと数十日で命が尽きるとは思えない、変わらない姉ちゃんの姿があった。
私が滞在している期間、姉ちゃんは友達と会う時間を確保しながら、自分の遺影の写真を選んだり、葬式の段取りまで淡々とこなしていった。
「自分の遺影の写真選ぶなんてあれかもしれないけど、死んだ後に葬式見て、その写真嫌だって思っても言えないじゃん」なんて笑いとばしながら。
それでも、少しずつ頓服の痛み止めを飲む回数も増え、体力が落ちていっているのは、私から見ても分かった。
姉ちゃんは、元気なうちにもう一度だけ私の息子達に会いたいと言っていたのだが、息子達が来るまであと4日あった。
でもなんとなく胸騒ぎがした私は、こっそり夫に連絡した。
「急だけど明日から学校休ませて2人をこっちに来させてほしい」
予定より早く訪れた息子2人の姿に姉ちゃんはとても喜び
2人が張り切って作ったカレーをみんなで美味しいと言って食べて、楽しい時間を過ごした。
***
夜、姉ちゃんの部屋で2人で少し話した。
「不思議だけど、余命宣告受けたのにすごく落ち着いてるんだよね。周りに感謝の気持ちでいっぱい。もう満足だ」
私は泣いてしまった。
姉は言う。
なんで泣くの~。余命を考えて泣くより、今 話そう。今 笑おうよ。だってせっかく今生きてるんだからさ。
あんたを残していくのと、子ども達の成長を見れないのだけが心残り。でもこればっかりは、考えても仕方ない。姉ちゃんは大丈夫だよ。
これを口にしたらお別れみたいで
すごく言うのが嫌だったけど
その時言わなければ後悔する気がして、私は震える口を開いた。
「姉ちゃんが、私の姉ちゃんで良かった」
泣きながら言った私の言葉に、姉ちゃんも涙目になりながら言った。
「それは姉ちゃんも同じだよ」
普段は夜遅くまで起きている姉ちゃんが、その日はちょっと疲れた様子だったので
いつもより早くおやすみを告げた。
明け方に容態が急変、姉ちゃんは救急搬送された。
苦しそうにしながらもまだ意識がある姉ちゃんに向かって
私と家族は、姉ちゃんの体をさすったり声をかけたりした。
遠方にいる父も、朝の飛行機で病院に向かっていて
電話口で父の声を姉ちゃんに聞かせた。
「お父さん今から飛行機乗るよ、すぐ行くからね」
姉ちゃんは父の声を聞き取り、目をかすかに開けながら頷いた。
余命2ヶ月と言われてからまだ2週間だったし、昨日までニコニコ笑い合っていたので、私も家族も、姉ちゃんは持ち直すものと思っていた。
ところが看護師さんから、私と姉ちゃんの旦那さんだけ別室に呼ばれた。
鎮静剤についての説明と共に、同意書が渡されたのだ。
鎮静剤のことは、姉ちゃんがいつも言っていた。
「管だけで生きるのは望んでない。痛いのも嫌だし、苦しんでいるのを家族に見せるのも嫌だから、その時が来たら迷いなく鎮静剤を打ってほしい」
先生にそれを伝えると、先生は頷きながらこう言った。
「お姉さんから頼まれていたんです。鎮静剤の判断は、ご主人と、それから一番信頼している妹さんに委ねると。妹さんがこれまでずっと身近で支えてくれたから、最後はお二人に委ねたいと言っていましたよ。」
私は泣いた。。。
わんわん泣いてしまった。
鎮静剤を打ったからといって余命に影響するわけでないけど
話ができなくなる可能性がとても高くなる。
つまり、もう姉ちゃんとは、2度と会話できないのだ。
父の到着も待ちたかったが、そうすれば姉ちゃんが痛みに苦しみ続けることになる・・・。
私と旦那さんは2人で覚悟を決め
泣きながら同意書にサインした。
先生が
「では話していたお薬、今からゆっくり入れていきますね」と言った時
姉ちゃんはまだ理解していて大きく頷いた。
でも鎮静剤を打って間もなく、姉ちゃんは眠っているような状態になった。
話ができなくなっても、耳だけは最期まで聞こえるということは知っていたので
私は、姉ちゃん大好きだよと言って手をさすり続けた。
母が姉ちゃんに向かって
「お父さんもう来るよ」と言った時
姉ちゃんは少しだけ力を入れて頷いた後
静かに息をひきとった。。。
冷たくなった姉ちゃんの手をさすりながら
「せっかくいま生きてるんだから、いま笑おうよ」
と言った姉ちゃんの前日の声が、いつまでも私の耳で鳴り響いた。
もっと話しておけばよかった。。。
***
葬式には、予想以上に多くの人が参列してくださった。
そしてその誰もが、姉ちゃんがガンだったことに驚き、その生き方に感銘を受け、私たち遺族に感謝の気持ちを伝えてくれた。
私の予想の何倍も、姉ちゃんが周りの人に常に笑顔と元気を与えていた人だったということが分かって、私は姉ちゃんの亡骸に、みんなの気持ちを伝えたくなった。
だから私は、親族代表挨拶での最後を
姉ちゃんへ向けたメッセージで締めくくった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんは本当にすごいよ。
姉ちゃんがいつも言っていた、最後まで笑顔の明るいイメージだけを周りに残したいっていう願いは、ちゃんと叶っているよ。
39年間本当にお疲れ様でした。」
こうして振り返ると、姉と共に刻んだ時間は
私にとってかけがえのない時間でした。
姉ちゃん、改めて ありがとう。
私の書く記事は多分、伝わる人が限られています。いじめ、機能不全家族、HSP、病気などの記事多めなので。それでも深くせまく伝えたくて書いています。サポートとても嬉しいです。感謝します。コメントも嬉しいです🍀