【You Tube】時計じかけのオレンジの動画の原稿【誰も見ぃひん】

えー、それでは今回はですね。映画史に残る大傑作映画ですね
【時計じかけのオレンジ】の小説版との比較、解説、ちょっぴり考察、といった事をやっていきたいと思います。

YouTubeの鉄則として「見る人が知りたい情報をまず出せ」というのがあるらしく
僕としては不愉快な考え方なのですが、まぁ今回ばかしはちょっと折れておきましょう。
皆さんが一体何を知りたいのか?

それは【時計じかけのオレンジ】という言葉は一体何の事を言っているのか?という部分ではないのかと思います。
実はコレは映画化するに当たってキューブリックがカットしている訳なんですが
実はアレックスに押し入られてリンチに合うおっさんがいますよね。この人が書いていた本の題名なんですね。
そして小説版ではその本の一説、最初の部分をちょっとだけ読む事が出来ます。

「神の創造の最後の段階において、その髭ある唇より豊かに滲み出し、
成長と、愛の力ある創造物たる人間に責めを負わさんとするもの
機械的創造物に特有なる法則や状態に対する責任を負わすべく、私は剣なるペンを取る!」

一体何を言ってるんだ?といった文章ですが、皆様お分かりの通り、この本のタイトルも、そして小説のタイトルも
【時計じかけのオレンジ】である訳で、伊達や酔狂で出てきた名前でない事は確実です。
この謎の本の題名、そしてその冒頭に書き記された何だか良く分からない言葉
読者はコレの意味を頭の隅に置きながら、小説を読み進める事になる、という構造ですね。

時計じかけのオレンジとはいったい何か?!答えは動画の最後に!!なんつってね。

それでは本格的な解説に入ろうかと思う訳ですが、まず言える事は、小説事態はそれなりに楽しいですが
かと言って小説を読んだ事によって「映画」の足りていない部分を補完出来るかというと、僕はそんな事は無いと感じます。
映画版の時計じかけのオレンジは完全に歴史に残るレベルの傑作ですし、アレはアレで完結しています。
まぁ小説を読んだ方がいいとは思いますが「小説版読まなきゃ始まんねぇよ」ってレベルでは無いって事ですね。

ですので今回は、ゲーム・オブ・スローンズの比較とは逆に、
映画にあって小説に無い要素、というのをピックアップしていこうと思います

まず一番大きいのはシンギングイン・ザ・レインのシーンですね。一度見たら忘れないシーンですが、ここは小説版にはありません。
となるとここで映画版を何度も見ている僕のような人には「あれ?」と思う部分が出てくると思います。
物語の終盤でアレックスが風呂場でシンギングイン・ザ・レインを歌ってしまい
それを聞いたおっさんがその時の記憶をフラッシュバックさせて面白い顔になるシーンがあります。
シンギングイン・ザ・レインのシーンが無いのだとすると、ここってどうなるの?

実は小説版ではココは、アレックス達が日常的に好んで使う、謎のスラングがありますよね。
マレンキー ホラショー アルトラバイオレンス イナウトイナウト ミリセント カッター銭
実はコレが決め手になって「こいつはあの野郎だ」と気付く、という事になります。
映画版でもこの謎のスラングにいちいちルビふってたのは多分そういう理由があったんですね。
コレに関してはどっちがいいのか僕としては評価が別れますね。映画のこのシーンは間違いなく名シーンですが
一方で「人様の家で風呂に入れてもらって歌は歌わないなぁ…」と僕だったら思うんですが
でもここで歌ってるのは僕では無くアレックスですから、まぁ歌くらい歌っても違和感無いでしょうね。

あと気になるのは音楽、特に第九の使い方ですか。小説版でも第九は出てきますが重要シーンだけで
小説版のアレックスはクラシックのレコードを結構片っ端から聞いていますね。
ちなみにルドヴィコ療法のシーンでかかってたのは第九のではなくベートーヴェンの5番の第四楽章。
5番と言えば第一楽章が有名ですが、僕は第四楽章の方が好きでアレックスとは気が合いますね。超最高です。
そしてアレックスが密室に閉じ込められて飛び降り自殺をするシーンですが、
ここではオットー・スカデリクの3番が流されたそうなのですが、検索しても全く出てこないので
多分この人は実在しない人物なんじゃないのかと思います。
あとコロバ・ミルク・バーでミルクプラスを飲んでいる時に歌われる歌も、映画では喜びの歌ですが
小説版だとフリドリヒ・ギッテルフェンターという人のオペラだそうで、これも検索しても何もヒットしません。

ちなみにミルクプラスというのはなんとなく分かっているかと思いますが、
ミルクの中に何か入れているって事で、「この店には酒類販売許可証が無い」という記述が書いてありますが。
まぁ多分麻薬ですね。しっかりとは明記されていませんけどね。

時計じかけのオレンジという映画のテーマの解釈なんてのは誰でもやってるんで今更必要無いんじゃないのかと思うのですが
ようは「善と悪」ってのはそれほどしっかりと別れているものでもないし、そして一方に存在する「自由」というものがある訳で
その自由というものが「善悪」によって制限されていいのか?制限されていいのだとして、それは何処まですべきか?という話ですね。

アレックスは言います
【だが兄弟。彼等がいったい何が不良(悪)の原因であるのかなんて考えているのかなんて
          俺に言わせりゃ全くのお笑いだ。【善良】の原因さえ良く分かっていないくせに。】

これは我々悪人サイドからすれば一本取ってくれたようなセリフですよね。良く言った!っていう。
このセリフは僕はビートたけしのセリフを思い出しますね。

ビートたけしが言うには
人間ってのは長い長い歴史の中で、宗教やら道徳やらで必死に
「死んではいけない理由」を発明する事に血道を上げてきた。
でも今日に至っても「生きなきゃいけない理由」を発明出来た奴はいない。

このたけしのセリフは僕の座右の銘の一つですね。この言葉に何度助けられた事か。

それと宣教師みたいな人のこんなセリフも印象的ですね

「いったい神は何を望んでおられるのか?神は善良である事を望んでいるのか?
  それとも善良である事の選択を望んでおられるのか?
  どうかして悪を選んだ人は、押し付けられた善を持っている者よりも優れた人だろうか?」

時計じかけのオレンジという映画は比較的テーマがわかり易い映画だとは思うのですが
小説版だともう完全に本のテーマをここで語っちゃっている感じですよね。
そしてこの辺の疑問、つまり、自分で選びとった悪と押し付けられた善、どっちが良いものか?という疑問は
僕も常日頃から考えている事、というか、僕は選択した悪の方が良いと思っている、とかいうと怒られそうですが
別に悪い事しろって言ってる訳じゃなくて「俺が決める」って事が重要だって事ですね。
深夜の3時に車の来てない赤信号の前で俺は待つつもりは無いよ。って事です。

そしてここに日本人の拷問官ってのが出てきますね。おぉ…って感じですけど
ちなみに僕等はナチと日本軍ってパージして考えがちですけど
多分戦勝国からすれば「ナチとジャップ」ってのはセット販売って事なんじゃないのかと思います。
映画版だとナチだけしか出てきませんけどね。この辺はキューブリックがカットした訳ですけど
一方で博士の異常な愛情では「日本人に拷問された」という描写が出てきますし、
この辺りの日本人の描写に関してはまぁなんとも言えない感じですね。
個人的な好みを言うと「悪口でも日本の名前が出てくるとちょっと嬉しい」とか思ってしまいますね

さてそろそろ時計じかけのオレンジとは何か?という話をしようかと思いますが、コレは簡単に言うとアレックスの事です。
この本を書いている人は左翼運動家の作家で、まぁ文学的表現みたいなものを好んで使うんでしょうね。

人間は果物みたいなものであり「ただそこに存在」というものであるはずだ、と、
しかしそれを機械化、時計じかけにしようとする存在
それが政府といった連中である、という訳ですね。そしてその象徴が、
ルドヴィコ療法によって機械的に善なる存在へと作り変えられたアレックス本人である、と。
まぁ種が分かればな~んだ…ってな話でしょうけれどもね。

「神の創造の最後の段階において、その髭ある唇より豊かに滲み出し、
成長と、愛の力ある創造物たる人間に責めを負わさんとするもの
機械的創造物に特有なる法則や状態に対する責任を負わすべく、私は剣なるペンを取る!」

一方でこの御大層な反権力思想を持っている男も、その押し付けられた善によって復讐を完遂しようとした訳で
まぁようは人間誰もが善良とはほど遠い、という皮肉な話になっている訳ですけれどもね。

そして重要なのが最後ですね。実はこの小説、最終章でアレックスが改心して終わるんですね。
映画版ではアレックスがこれから政府の公認を貰った形で滅茶苦茶やり始めるであろう事が示唆されて終わりますが。

まぁようは映画版と小説版でちょっとテーマが変わるんですよね。
映画は悪魔的存在であるアレックスを通じて、善と悪を寓話的、おとぎ話的に描いた傑作だと思うのですが
小説版はアレックスの悪魔的行動を「若気の至り」「若さ故の過ち」として捕える感じで
まぁ一種、人間の業の肯定、みたいな感じで締めている節があります。

キューブリックはこの最終章を見て「馬鹿じゃねぇの?こんなどんでん返しあってたまるかよ」とカットしたようですが
小説の筆者のアントニー・バージェスという人は、この人はどうやらカソリックなんですね。結構信心深い人らしい訳です。
そんな人がこのような、悪魔的小説を書くという事に、僕はキリスト教圏の懐の深さみたいなものも感じたりするのですが
つまりなんというか、コレはアントニー・バージェスが最後にちゃぶ台返しをしたというよりも
最後の最後に「主よ…」と言った感じの
人間は神の被造物であり、クリスチャンとしては、その人間が善良である事を願わずにいられない
一種の祈りとして描かれた章なのでは無いのかと個人的には思いますね。僕は断然映画派ですけれどもね。
というかキューブリックみたいな映画をいずれ撮るんだとか思ってました。やれやれって感じですね。
もうすぐ40歳なのに貯金残高20万円くらいの男が何言ってるんだって感じですよね。はぁ…

という事で、今回はこの辺で。ありがとうございました。

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