秋の霧・散文詩
早朝に薄くかかった霧に町は静止しているようだ。ビニールハウスは無防備に丸みのある腹を見せて草木もわずかに頭を下げて眠っている。盆地の霧は緩やかに這うように動く。
いつか友人と山の頂からみた雲海のなかを電車は走っていく。この外に動くものなどないようだ。
ちら、と考えたとき窓を開け閉めする音、私の頰を湿り気を帯びた風がかすめた。そうして電車のなかに流れ込んできた霧の重みに誰もが黙して身をシートに沈めている。そんな停滞した時間のなかでいくつかの唇から、つ、と鱗がぬめり零れて跳ねた。まつ毛を膝頭をかすめて霧の流れへいたる。やがて老いも若きも変わらない鱗の燦めきが唇から滝となって電車の床を打ちはじめる。軽さや重さから解き放たれたように音もなく。
電車がトンネルに入ると透明な燦めきは闇を、人びとの足を濡らして鼓動や吐息、静脈や動脈、浮遊する塵芥の静寂を吸い込みいっぴきのさかなへと変貌していった。さかなは電車を包みこみトンネルの暗やみに燦めく尾を引いて泳ぐ。
やがて、この世界のどこかで誰かが、ひかりを、求めた。
電車がトンネルを抜ける。晴れ渡った野の景色がひろがるなか、背広姿の男が頭をかくん、とゆらしたのを機に赤ん坊が泣いた。上下する電線から雀が飛び立ち、ビニールハウスへと作業着の老人が入っていく。車内にはひかりがあり、それはとてもありふれていた。
動き続ける世界を電車が走っていく。
まるで血潮のように流れゆくすべてを観続ける、誰かの視界のなか。病葉が風に舞った。
※秋の霧・随筆版はこちら
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