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#2 【40代からの日向坂46】使われなかった人生

このnoteは40代半ばにして、人生で初めてアイドルに興味を持ち、まんまと日向坂46のファンになってしまったオッサンの「推し活」の日々を記録したものです。

最初に謝っておきますが、今回は「自分語り」回です。

このnoteをフォローしていただいている読者やたまたま目について読んでくれている人たちの多くは、恐らく日向坂46のファンであったり、少なくともアイドルに興味のある人だと思います。ひょっとしたら「オタク」と呼ばれるようなかなりの熱量をもってアイドルを応援している人たちかもしれません。

しかし、僕は少し前まで、それとは全く対極にあるようなタイプの人間でした。中学、高校といった思春期前後の頃は、文武両道を謳う田舎の進学校でひたすら部活と勉強、そして少しの恋愛に時間を費やし、上京してきた大学時代は、ちょうど「モーニング娘。」がデビューした頃でしたが、競馬と麻雀で忙しくて、それはほとんど視界に入っていませんでした。そうやって若い頃を過ごして社会人になり歳を重ねてくれば、どれだけAKBグループが日本中を跋扈し、坂道グループが時代を席巻しようが、やはりどこか冷めたような引いたような目でその界隈を眺めるようになるわけです。

つまり現実的には、アイドルファンあるいはオタクと呼ばれるような人たちと、そうでない人たちとの間には、決して地続きではない断絶があると思うんですよね。

とはいえ、全てが全てネガティブな意識でそれらを見ていたわけではないんですよね。やはり、男たるものかわいい女の子たちは好きですし、夢中で好きなものを好きだと熱量高く叫ぶことへの憧れみたいなものがあったことも否定はできません。いつの頃からか僕はときどきこう考えていました。「生まれ変わったら、アイドルを夢中で応援するような人生も送ってみたいかもなあ。」

僕が大学生の頃から好きで、よくその著作を読んでいたノンフィクション作家に沢木耕太郎という人がいます。旅のバイブルとも言われる『深夜特急』という紀行エッセイが有名ですね。その沢木の著作の一つに、『世界は「使われなかった人生」であふれている』という映画エッセイがあります。今の人生とは違う「あり得たかもしれない人生」の中には、例えば、「もしあの決勝戦に勝っていたら」とか「あの試験に合格していたら」とか、叶うことのなかった夢という意味合いが含まれていると彼は言います。ただ、「使われなかった人生」というのはそうではなくて、ほんのちょっとした決断や選択で歩むことのなかった人生だと。

40才を過ぎて考えるようになったことは、思い込みや先入観で何かを決めつけるのはできるだけやめていきたいなということでした。歳をとり、それらに囚われて凝り固まっていく人生はかっこ悪いしつまらないだろうなと思っていたのです。つまり、アイドルを好きになる、応援する人生というのは僕にとって「使われなかった人生」ではあるけれど、それは今からでも少し、選んでみることもできるものだと。

そんなタイミングで「影山優佳」と「日向坂46」は、僕の中にすっと入ってきて、地続きではなかった断絶をふわりと越えてしまったわけです。

ただ、当然「使われなかった人生」には理由があり、「使ってきた人生」を捨てるわけにはいかないのです。だから、今の生活と日向坂46を推す生活をどうやって両立させていくのか、これこそが今回のミッション最大のテーマであり、このnoteを意味のあるコンテンツにしていくためのトピックになっていく予定です。

では、この「自分語り」の続きはまたの機会に。

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