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気持ちに目を向ける練習を積むこと

夫は自分の気持ちがわからない(らしい)。
きっと子育てで子どもたちに身包み剥がされて押し寄せる己の感情にキーっとなるまで見えなかった自分の本当の気持ち。
自分を見失うほど怒るなんて異常だという実母への恨みを込めて自制してきたんだろうけれど、内から沸き起こる感情を無視して育児などできぬ。2次元の世界から学んだことは3次元のリアルな育児でも結婚生活でも役に立たなかった。3次元あってこそ輝く2次元の世界なのだから。
常に冷静な自分を愛し誇りに思ってきたとして、鏡に映ったあなたのリアルは何パーセント?

自分の気持ちを一つ一つ確かめて

子どもたちが1歳ごろ?いやもっと小さい頃から私がしてきたことも一つに「子どもに選択させること」がある

どっちの色がいい?どっちのおもちゃにする?どっちの絵本から読む?服はどれを着るの?どの靴履くの?ご飯は何が食べたい?おやつは何にするの?公園が先?買い物が先?

些細なことでもとにかく声をかける。結果として私が決めたことはもちろんたくさんあるけれど、あなたには決定権があるというメッセージを投げてきていた。(つもり)
それがよかったのかはわからないんだけれど、子どもたちは私にいろいろな気持ちを伝えてくれる。

伝えてくれさえすれば、いい時にも悪い時にも寄り添うことができる。

子どもだから適さない表現や言葉を使うことがあるけれど、適切な表現だったら大人な振る舞いだと褒めることもできるし、好ましくない表現を使った時には「それはあんまり嬉しくないな。こう言いたかった?じゃあこう言った方が伝わるよ。」そんな風に修正していくこともできる。

アウトプットがないとこちら側から何もしてあげられない。

大きな失敗を親のいないところでしてこっそり傷つくくらいなら、私の手の届くところでたくさん失敗して置いて欲しい。そんな思いで眺めてきた。

お下がりでもらったたくさんの服も、面倒だけど一つ一つ着るのか着ないのかを本人に聞いて決めてもらってる。それも、生きる力の獲得のため。
人生は選択の連続だから、小さいうちから選ぶことと決めることの練習をしてほしい。

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いい気持ちも悪い気持ちも全部が自分だから

いいことがあれば嬉しい。良くないことがあれば悲しい。そんな気持ちがあるのは人間だから。人は誰でもいい気持ちも悪い気持ちも持っているものだと思う。

何かがうまくいかない時、モヤモヤが心の中を埋め尽くしなんとも自分が小さく感じることがある。

例えば、今、我が子がチャレンジしていることの一つに鉄棒がある
学校で歴代1番の足掛け周りの記録が連続102回、今の学年の最高記録が55回で我が子が保持しているらしい。私はそこまでやらなくてもいいよ〜と内心思いつつ、頑張りすぎないでね、無理のない範囲でチャレンジしてねと伝えている。

お友達が51回まで迫ってきた時、抜かされるのも嫌だし、抜かされたくないと感じた自分も嫌だし、抜かされてしまったら自分が空っぽになるようなそんな気持ちになったようでした。

子どもって成長の過程、様々な場面でもやもやしたりイライラしたりする。
大人から見たら大したことではないことでも、つまづくきっかけになったりもする。
そして、そのモヤモヤをうまく言語化できないうちは、暴力や暴言、また泣き叫んだりと大人にとって好ましくない状態でアウトプットされることがある。

悪い気持ちが湧き上がってくることは不快だけれど、それって全部悪いことなのだろうか。悪い気持ちに目を向けられたなら、今よりいい自分、今より自分が好きな自分になれるような気がしている。

鉄棒の連続記録が抜かされたら努力したことが無になるようなそんな錯覚があるようだけれど、55回も回れた自分が何よりの宝だし、55回も回れるようになった腕と肩と手首と脚全体の筋肉は鉄棒にハマる前とは別物。それが何よりもの頑張った証だし、きちんと体に残っている努力の痕跡。

いつだって戦いは昨日の己との戦いなんだよ。

そんなことまだ全然わからない子どもを相手にそう言いながら子育てしてきた。運動会とか勝負事で勝った負けたは楽しい。だけれど、日々の生活の中で比べるべきは昨日の自分。お友達があなたの55回の記録を抜いたらそれはその子が昨日の自分に勝ったんだから、喜んであげたいし、褒めてあげたい。そんな話をしたら納得した様子。

いい気持ちも悪い気持ちも全部が全部、自分だから
相手を攻撃したり相手を不幸にする形ではなく、楽になるような落とし所が見つからないかなと日々そんなことを思いながら子どもと対話している。

一人で苦しむ時はお母さんに話してほしい、もしかしたら出口のきっかけくらいはあげられるかもしれない。

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気持ちを否定されたら声に出すことすら怖くなる

夫は母親に自分のまっすぐな気持ちを聞いてもらったことがほぼないんだと思う。

なんでそう思うかって思う理由は色々あるんだけれど、一番は子どもと会話しているのを眺めていると良くわかる。
例えば先出の鉄棒の学年記録を保持していて、学校の記録に挑んでいる娘に「よし!102回を破れ!」という。

もう十分だよと言っている私のそばで「もっとやれ!一番になれ!」という、鉄棒で回りすぎて、腰にも足にも膝の裏もあざだらけでボロボロの我が子に向かって社会的な絶対的なポジションを取らせようとする。

限界を超えて頑張っている時、そこにはもういいかなって気持ちと諦めたくない気持ちが共存していると思う。その時に親からかけられる言葉が「もっとやれ!」だったら?今年度の学年一位でも満足してくれない親が歴代の学校記録、今の自己ベストのほぼ倍の102回を超えろと言ってきたらどう思うだろう。

夫はそこまで深く考えてはいないから、だからこそ言える「歴代記録を破ってこい」なんだと思う、自分も親にそうされてきたんだと思う。とちょっと苦しい。
55回も回ること自体結構なしんどさだと思うし、己と戦い続けている我が子を思えば、できたらすごいけど、できなくてもあなたはあなただから歴代の記録抜かせなくてもいいんだよってところとか、でも無理しないでねとかはないのかな。

子どもにとってみたら結構しんどいことで、頑張りたいけれどできないかもってお思っている自分を受け止めて欲しかったりしていないのかなと「記録抜かせるといいね」とプレッシャーをかけている夫に私は勝手にざわざわする。小さいことの積み重ねで自分の気持ちを否定されたような気持ちが生まれて怖くてだんだん普通のことが言えなくなって来ないかなって。

社会にいる10人中9人がすごい!って感嘆と評価をくれるところ。そのふんわりとした自分の人生にはあんまり深い関わりのない層である”9人”を目指すと生きていくのしんどい。

その9人の”すごい”にどれくらいの重みがあるんだろうか。
あんまり近くにいない人の”すごい”はどんな風にあなたに力をくれるんだろうか。

ただただ、今パッと聞いた話としてそこそこのインパクトがあるから挨拶として”すごい”と言った人の方が多いでしょう。

私は100人に嫌われてもいいから、一人だけ私をわかってくれる人がいればいいと思って生きてきた。

でもその一人ってもしかして母親だったのかなって。
だとしたら、私のことをそのまま受け止めてくれていた人がいたから寂しくないのかなって。

開けられた穴をずっと埋めていてくれたのは静かな波、静かな母の愛なのかも

私が私のために生きられるのは、愛された証なのかも

そんな風に今は亡き母に想いを馳せてみたりして。

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鎌倉の海、由比ヶ浜の砂浜に穴を掘る。掘っても掘っても埋まっていく。

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