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どうして痛みから逃げるんだろう

回避性愛着障害、回避型の愛着障害と言われている夫とは会話が成り立たないことが多い、会話が成り立たないことが私には辛い。でもその辛さの意味が彼にはわからないようです。
夫にとっての辛さは自分を否定されることだから?

間違ってることに間違ってると言えないことが嫌いなの

間違ってると思った時に相手に「それはいけないよ」と伝えることは勇気のいること。では、怖いことに立ち向かう強さってどこからもらってくるんだろう。そんなことを考えていた。絶対的な味方がいると思えなかったら、意見を言う強さは持てないんだろうか。

私は今朝、自分を見失うほど怒りを感じてしまって子どもの背中に向かって手に持っていた箸を投げた。どんな理由があってもしてはならないこと。

「背後から箸を投げつける」

こんな卑劣の上塗りはないと思う。それを黙認できる夫にがっかりしてしまう。
事の経緯はこんな・・・私が夫へ文句を言っていたら子どもが喧嘩をやめて欲しくてiPadを持ち出して動画を撮影し始めました。「喧嘩でーす。喧嘩ですよー喧嘩が始まりましたー。」そんな具合で子どもが動画の撮影を始めた。

「話がしたいだけだからやめて」と伝えても、全然やめてくれない。

夫はただ黙って撮影されている。黙って食器を洗っている。

本当にそれでいいの?

なんで何も言わないの?怖くて私と話せないとしても子どもにすら育ちの指標となる声かけをしてあげることもしないの?何もかもから逃げてて子育てなんてできるわけがない。怒りが込み上げてきた。

子どもにもう一度お願いする。「お願いだからやめて」

耳を貸さずに動画の撮影を続ける。「はーい喧嘩でーす。また喧嘩ですよーー。」私はその背中に向かって「やめてって言ってるでしょう?!」と箸を投げつけてしまった。そしたら子どもはびっくりしてやめた。

私を口をキュッと結んで振り返る。目に涙をいっぱいにためて、こぼれ落ちてくるなよ涙!と言いたげに走って脱衣所に消えて鍵をかけた。声を殺して泣いている。

そうなっても夫はまだ何も言わない。黙って食器を洗っている。
私が間違った時に何か言って欲しいと期待することすらいけないことなの?
父親として、私に対して子どもに箸を投げるなってことと、傷ついている息子の心配はないの?

食器洗いの手を止めて無言のまま床を這いつくばり私が投げた箸を探している夫に吐き気が止まらなくなった。

どうして箸が先なの?
子どもの気持ちのフォローも行きすぎた対応をした私への注意もない。

何もかもを無かったことにする。無視をされるのはこんなに辛いと知らなかった。無視って本当に心にくる。
飛んでいった箸を探せば何もかもが元に戻るとそう信じてるの?
それとも黙って箸を探すことで自分の感情を逃しているのか。

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自分を信じられないから誰も信じられない自分を疑い続ける

どうして箸が先なの?隠れて泣いている子どもに声をかけてお母さんがいけないやりすぎだって言えないの?
それでも、子どももやめてって言われたらやめないとって言ってくれないの?一人でする子育てに疲れたと言ったらなんて言ったか。

「俺は人より物の方が大事なんだ」

そう言ったんだよ。前ならその言葉をそのまま受け取って幻滅していた。
でも今は精神科の医師のアドバイスがあるから、私も闇に落ちなくて済む。

夫は自分が感じた感情を逃したんだ。ちゃんとそう思えた。

夫は自分を信じられてないようで、だからこそ言うことがコロコロ変わる。(らしい)自分の決めたことが手堅い時は気分が乗っていて進められるけれど、勝ち目がないと踏んだ途端投げ出す。それは一見ADHDの注意力散漫に見えて実は異なるものという話。自分の失敗を引き受けるには、自分が自分でいることを認められないと引き受けられない。

私は子どもによく言うの「大丈夫だよ。あなただからできるんだよ。だって、あなただもの。できるに決まってる。お母さんの子どもだから大丈夫。お母さんがついてるから。」

運動会だったり、試験だったり何か難しそうでそわそわしているときは必ずそう声を掛ける。

練習したのもあなただし、コツコツ頑張ったのもあなただし、もしかしてただ運がいいだけでうまく行くのもあなただし。全部が全部、「あなただから」そんな理由で叶えられているんだと思う。できないこともできることも全部「あなただから」。

最後の最後、信じられるのは自分だけなんだよ。自分だけは絶対に裏切らない。だから自分を信じて欲しい。

辛さを分かち合ってくれる人がいなかったから痛みから逃げる

人間なんて生まれた時からトライアンドエラーで成り立っている。

失敗があるから成功する。失敗は成功の母と言ったエジソン。

本当にそうだと思う。寝返り、座る、たつ、歩く、言葉を話す。一つ一つ、さらっと捉えれば事象だけど、一つ一つのことを達成するまでには大人が見過ごしてしまうような小さなエラーを積み重ねているんだと思う。

エラーを重ねる中で成功する方法を子ども自身見つけて成功に導いているんだと思う。そうじゃ無かったら何もないのに寝返ったり、ハイハイで移動してみたり、立ったり歩いたりしないと思う。私もそうやって英語を学んだから、実感としてトライアンドエラーで学ぶってのはなんかわかる。

小さな子どもが小さくつまずいた時に、一人で心細さを感じた時にどんな言葉をかけてもらえたのかは先の人生に大きな影響を与えると思う。

痛みは自分の一部だから、一人ではとても抱えきれないことも
信頼している大切な大人、安心できる絶対的な存在に受け止めてもらうことで再び挑戦することができるのかも知れない。

見守っていてくれる人がいる安心感で人間は育っていくのかも知れない。

辛さをわかってくれる人がいなかったら、もしかして人は立ち上がれないのかも知れない。

立ち上がれなくなるから、辛さや痛みは逃してしまうのかも知れない。

夫を見ているとそんな風に思う。

辛い気持ち、痛みを逃してしまうことは結構危険だってことに気づいたの。

辛いことから逃げることと、その気持ちを逃してしまうことは似て非なるもの。
ネガティブな気持ちを見えなくすると自動的にポジティブな気持ちも見えにくくなる。無視することは結局、どっちの気持ちも見えにくくする。
一番カッコ悪くて惨めな気持ちが「辛い」「痛い」「悔しい」「寂しい」なのかも知れない。その気持ちから逃れることはその反対側にある「嬉しい」「心地よい」「誇らしい」「安心できる」そんな気持ちも見えにくくしてしまう。

結果、気付かぬうちにそこにあるべき主体性が徐々に失われて行ってしまう。

それってとても悲しいことだよね。自分を守るために気持ちに目を向けなくなったら自分がそこにいなくなってて、何が正解なのかもわからなくなる。

自分がそこにいなくて生きていくって結構しんどいのかも。

そこまでして痛みから逃げる必要があるから逃げるんだと思う。

子どもたちは父親を心底愛している。子どもたちの他人を愛する力ってすごく強いと思う。これほど真っ直ぐで前しか向いていない気持ちすごいなって思ってる。

どうか、どうか、子どもたちが大人になってしまう前に子どもたちの愛がすぼまぬ前に夫には気づいて欲しい。

待っててくれる人がいるのだから、痛みや情けない自分から逃げず、自分を自分として受け入れて生きていく決意を持って欲しい。


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薬にもなるドクダミ、葉っぱをアルコールにつけてチンキにしたりお茶にもなる。花は美白効果もあるとか。匂いは独特で臭いけれど美しい。

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