カント「啓蒙とは何か」について

近年、「啓蒙」という単語を目にすることはさほど多くない。18世紀の啓蒙思想や啓蒙政策に言及する時か、ホルクハイマー/アドルノの『啓蒙の弁証法』に関する議論くらいではないか。そもそも暗きものの蒙を啓き、より進歩した状態へ導く、という考え自体がすでに古臭いものに見えるだろう。しかしカントの「啓蒙とは何か」で論じられるのはそうしたいわば上からの啓蒙ではない。

啓蒙とは何か

「啓蒙とは己に咎がある未成年状態から人間が脱却することである」とカントはいう。「己に咎がある未成年状態」とは勇気がないせいで自分の理性を用いることができない状態のことを言う。つまり啓蒙とは、「本来自分で自由に考える力がある人々が、実際に自由に考えられるようになること」であると言える。知的な人物が無知な人物に物事を教える、というのはカントがいう啓蒙と正反対とすら言えるかもしれない。というのも「自由に考える」こと「自分の理性を使う」ことは先入見を批判し、「自分で考える」ことだからである。日本語ばかりかドイツ語でも上からの啓蒙のイメージが強いため、カントが「啓蒙」という語で言おうとしていることがどういうことなのかは注意しておく必要がある。カントによれば自分で考えること、自由に考えることは人間の使命であり、人間本性の根源的規定は認識の拡張と批判である。したがって啓蒙の規定は社会を合理的に組織化したり生産性を向上させることとは直接関係がない。啓蒙はより良い結果のためのものではなく人間の使命なのである。

自由と社会生活、機械を超える人間

自由に考えることが人間の使命であるということの前提には、人間が自由であるという認識があるだろう。人間は世界のうちにあって、何とどう関係するか決める自由がある。いわばあらかじめ人間が従わなければならない法則は存在しないのである。だから自分の世界との関係を自分で考え決める必要がある。しかしむしろ自由であるが故にこそ、人は不安を感じる。そして人に考えてもらったりすでに決まっていることに従ったりしたいと感じる。また実際その方が物事が円滑に進むことが多いのである。しかし人間は機械とは違って、未知のことを学ぶことができる。機械のように特定の既知の法則のうちでただ生きるのではなく、よりよく、より美しきものを求めて自由に考えるところに人間性があると言えるだろう。「啓蒙とは何か」で提示される最も重要とされる考え方「理性の公的使用」というのはそのために持ち出されたものである。社会の中で組織はある程度機械的に動く必要がある。無闇に社会的に通用している規範とか常識に反発しようとしたら厄介ごとを起こすことは想像に難くない。だからカントは仕事とか役職とかの社会的な立場においては自由は制限されるべきで当の規範に不満があっても機械的に動くべきであるとする。人間が機械的でなくいられるのは学者として、本来の公衆である読み手の世界に向けて語る時である。その時は無制限の自由を謳歌できる。社会生活はさしあたり承認しておかなければならない約束事が多く、それに慣れてしまうとそれらの約束事が自明視され、先入見として人を縛るのである。新しいものを認識したり新しい仕方で認識したりするためにはやはり自由が必要である。

文学と偶然性と

カントの時代から啓蒙は進んでいるとは思えない。政治にせよ経済にせよ社会的なシステムに対する批判は枚挙にいとまがない一方で、あらゆる人々がそうした学問の成果を手に取って自分で考えるようになっているとはとても言えない。また日本の教育システムは公的領域である自由な思考ではなく、私的領域である集団生活の秩序などにもっぱら関心があるようである。「理性の公的な使用の自由」があるのはどこなのか。インターネット、大学、メディア、今や私的な規則の支配が及んでいない場所はないようにすら思われる。資本主義が脱領土化し再領土化するシステムであるとすればそれも宜なるかなである。可能性が見出しうると思われるのは文学である。文学は人間を扱い、世界全体に向けられ、自由な思考を促すものであるだろう。文学が描き出すのは偶然性である。先入見から人を自由な思考に導くのもまた偶然性であろう。

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