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自分を知るために他人を知りたい


誰かの書いた文章が大好きだ。
TwitterもInstagramも、もちろんnoteも。そういえばエッセイを買うよりも小説を選びがちだけれど、話題になったエッセイも何冊か読んだ。
なにを考えて、なにを楽しんで、なにに興味関心を向けて生きているかを知ることができる。だから画像主体のInstagramより、文章がたくさん読めるnoteが好きだ。読みやすいと思った人の書いたnoteは、面白そうだと思った記事はすべて読む。
そういう点ではThreadsの方が自分には合っていそうだな、SNSを増やしたくないからやるかは分からないけども。


活字依存気味でもあるとは思う。ただそれよりもきっと、人に興味があるんだろう。
「自分」のことがわからないから、人のことを知りたい。人がどう生きて、なにを感じて、どんな風に社会と繋がっているのか。規範を探している。


個人名、現住所、血液型、学歴。そういうものを辿っていけば、今現在生きている「わたし」を定義づけることはできる。でも、好きな音楽、映画、ドラマやアニメやゲーム、そういうものを挙げようとしても言葉にできない。
「昔はあれが好きだったけど、今はなにが好きなんだっけ」「全部の曲を聞いてるわけじゃないから、好きなんて言っちゃいけないんじゃないの」「円盤買ってないし」「ファンブックとか持ってないし」とかそういう、自分の中のハードルを上げる人に阻まれて、浮かんできたものの輪郭をぐちゃぐちゃに塗りつぶされてしまう。たぶん、考えすぎている。


人の文章を読んで、頷いたり納得したりして、自分の輪郭を探している。人が発する光を当てて、自分の影を照らしているかもしれない。でもそれで見つけた自分は人ありきなので、影は影のまま、自分ひとりでは存在すら確信できないのかもしれないけれども。
言ってること、映画に出てくるサイコパスとかシリアルキラーみたいだな。大丈夫かなこの人。文章を組み立てた時は、もう少し明るく書けると思ってたんだけど。そこまで悲壮的になっているわけでもないし。


抑うつ状態だと診断された大学生の頃、カウンセリングに通っていた時期がある。ただひたすら聞いてもらうために、モヤモヤした心の中のモノを無理やり解きほぐして言葉にしていた。終わった後は、ああそうか、自分はこういうところに悩んでいるのか……と少しスッキリしていた記憶がある。
今その役割を負うのはジャーナリングになるんだろうか。ひたすら頭の中のことを解きほぐして、言葉にして書き出して、返事も相槌もなくても聞いてもらう。そう考えると、今のわたしがジャーナリングに興味を持ったのは必然だったのかもしれない。まあ、最近朝起きられてないからできてないんだけどね。


刹那的な感情の燃焼すらできてないような気がする。なにが楽しいんだっけ。なにを好きだったのか。次はそれを掘り下げてみようかな、またカフェでも行って。

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