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母と一緒に歌った童謡

不思議な思い出がある。
母と一緒に童謡を歌ったこと。

なぜ不思議なのかというと、
母がどうして歌を歌うことを誘ったのか今でもよくわからないからだ。和やかな思い出が少ない母との合唱はあたたかい思い出だったのかさえもさだかではない。

そんなことをふいに思い出したのは
母の童謡の本を思い出したからだ。

先日急な入院となり、家族が欲しいものを聞いてきてくれた時にこの本も頼んだ。家族は私がこんな本を持っているとは知らず、私が指示した場所を探して、これ?と写真付きのLINEで確認して持ってきてくれた。
娘は会うなり「お母さんやばいやばいって言ってたんだよ」と言う。「こんな本病室に持って来て欲しいって、お母さんいきなり歌い出すんじゃないかって。」とおかしそうに笑っている。「歌いそうだよね、お母さん。」他の家族も笑った。「あはは気をつける」


その本は
母が最期にお世話になっていた施設で、
母の亡き後退出するための
部屋の整理をしていた時にみつけた。
私も、母がこんな本を持っていたことに驚いた。

最初は迷うことなく他の書籍やノートと紐でしばり、捨てる山に寄せておいたが、でもやっぱりと最後の最後に引き返し、バッグにいれて持ち帰った。



あれは、日曜日の夕方に差し掛かるようなほんのひととき、それもたまのことだった。私は小学生だったろうか。毎回どんなきっかけで始まったのか覚えていない。
母と歌った歌は母が好きな歌で、
母と歌った事で知った気がする。


なつがくーればおもいだすー
はるかなおぜ
とおいそらー

母が特に好きで毎回必ず歌った「夏の思い出」

うーのはなーのにおうかきねに
ほーととぎすはやもきなきて
しーのーびーねもおらあすー
なつーうはーきーぬー

「夏は来ぬ」も母の十八番だったなあ。
私は意味なんてわからなくて歌っていたっけ。

はーるのうらーらーのすーみーだーがーわー
のーぼりーくだーりーのふーなびーとーがー
「花」はかならず私がアルトを買って出て、ハモる楽しさを知った。

しずかなこはんのもりのかげから
もう起きちゃいかがとかっこうがなく
カッコウ カッコウ カッコウ カッコウ カッコウ
時には姉が加わることもあった。
輪唱は人数が多いほうが重なる部分が複雑になって楽しかった。


あんたはいい声をしているのよ。
もっと歌ってみたらいいのに。

びっくりした。そんなこと考えたこともなかったし
母がそんなふうに思っていたとは思いもよらなかった。
母は私の声をほめている?
そう思うとくすぐったいような、
いや、期待してはいけないと思ったりしてドギマギしてしまった。


私は童謡というとまずいつも思い出す歌がある。
習ったことはないのでどこできいたのだろう。
歌詞も全部知らないので出だしだけを母に歌ってみせる。母はよく知っているといい、
教えてもらいながら一緒に歌った。

なもしらーぬー
とおきしーまより
なーがーれよーるやしーのみーひとつ
ふーるさとのきしをはーなれてー
なーれーはそもなみにいーくーつーきー

「椰子の実」という題名は母の童謡の本で最近知った。



問題が多かった父は早くに亡くなった。
父の心配ごとのせいで笑顔も消えたギスギスした家庭から早く逃げたいと思っていた娘たちは偶然にも父の他界とあわせたかのように結婚して家を離れた。
あの時の母の喪失感はいくばくのものであったろうか。
4人で暮らしていた家にいきなりポツンと残され、それから27年間母は1人で暮らした。
その間私たちはたまにしか孫の顔も見せないような、
意識して母との関係を絶とうとするような薄情な娘達だった。


母は70代になってから地域の「童謡の会」に入会した。私はそれを聞いた時すぐに子どもの頃の合唱を思い出したが言わなかった。
母が覚えていなかったら寂しいと思ったからだ。

私はその頃から
自分の育児もひと段落してようやく母との絆を取り戻そうと努力を始めた。毎週末母の元に通い、たくさんおしゃべりをする。ただそれだけだったが私ができる精一杯のことであった。

その時一度
母にせがんで歌ってもらった歌がある。
「からたちの花」だ。
詩がステキだと思った。
どんなメロディーなんだろう?とずっと思っていたのだ
知ってる?と聞いたら
これ、難しいのよ。そう言って歌ってくれた。

からたちのはながさいたよ
しろいしろいはなーがさいたよー
からたちのとげはいたいよー
あおいあおいはーりのとげだよー
からたちのはなのかきねよ
いつもいつもとーおるみちだよー
からたちもあきはみのるよ
まろいまろいきんのたまだよー
からたちのそばでないたよー
みんなみんなやさしかったよー
からたちのはながさいたよー
しろいしろいはながさいたよー

私は拍手をした。
スタンディングオーベーションでおどけてみせたけど、本当にそれくらい感動したのだ。

照れたように笑っていた母の顔を
私は今も思い出せる。


あの、子どもの頃の合唱は
不器用だった母の
愛情表現だったのだと思いたい。



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