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初詣には七福神めぐりに行こう!2024年は七福徳を一身にそなえて願いをかなえる年にする!

毎年元旦に七福神めぐりをしています。
東京には七福神めぐりがなんと20か所以上もあるようで、すべての地域が気になります。
皆さまのご地域にもきっとあるのではないでしょうか。

今回は東京の「谷中七福神めぐり」をご紹介したいと思います。


谷中七福神は江戸最古の七福神

江戸時代から「七福神詣で」が盛んにおこなわれるようになりました。
七人の神様を福の神として尊崇した「七福神」の創設者は上野東叡寺の開祖慈眼大師天海大僧正じげんだいしてんかいだいそうじょうといわれ、それらをめぐってお参りする七福神めぐりは谷中が江戸最古といわれています。

七福神めぐりはお参りすることで「七つの災難がたちまち消滅し、七つの福徳が生ずる」という「七難即滅七福即生しちなんそくめつしちなんそくしょう」のご利益があるといわれています。天海僧正はその経典による文に基づいて七つの神々の御徳をお授け頂いたならば益々幸福な生活がえられると七福神の信仰をお勧めくださいました。

七福神が祀られているのは、たいてい神社とお寺が混合されていることが多いのですが、谷中七福神はすべてお寺のみで構成されていて、
東京の台東区、荒川区、北区の3区をめぐります。

また、七福神めぐりは御朱印をいただきながらめぐるというのも楽しみのひとつですので、是非皆様にも体験していただきたいのですが、谷中七福神での御朱印は、1月1日から1月10日までの期間になりますのでお気をつけください。

出来上がりはこんなふうです。
各お寺にて、ハンコをいただきながらめぐります。


出発地点はどのお寺からでも可能です。各寺院で押印用の版画台紙が購入できますが、自分の御朱印帳に目の前で書いていただける方法もあります。

上野の弁天堂をスタートするコースをご紹介します

さて、この谷中七福神、上野からめぐるとしますと下記のコースがおすすめです。
不忍弁天堂(弁才天)0.4km/ 7分 →護国院(大黒天)1.2km/ 20分 →長安寺(寿老人)0.9km/ 15分 →天王寺(毘沙門天)0.3km/ 5分→修性院(布袋尊)0.9km/ 15分 →青雲寺(恵美寿神)0.2km/ 4分 →東覚寺(福禄寿)1.0km/ 17分 

版画台紙を購入したときに一緒にもらえる地図

途中わかりにくいところもありますので、地図をみながら確認してみてください。ではお寺さんを一つ一つめぐっていきましょう!

①弁天堂(弁才天)


東京都台東区の上野公園内にある不忍池しのばずのいけの中島にあります。

寛永寺を創建した天海僧正が寛永年間(1624年〜1645年)に建立しました。現在のお堂は戦災で焼失後、昭和33年(1958年)に再建されたものです。ご本尊は八臂大弁財天はっぴべんざいてんで、八本の腕があり煩悩をなくすための武器をもっています長寿や福徳・芸能の守りとして信仰されています。ご開帳は9月に行われる「巳成金みなるかね大祭」の日で、年に1日だけ。私もお参りしたことがなく是非2024年には行ってみたいです!
また、お堂の中には児玉希望こだまきぼうによる龍の天井絵があります。迫力がありますよ!こちらもお見逃しなくごらんください。

さらに、弁天堂には、谷中七福神とは別に「大黒天」がお祀りされています。

この大黒天は豊臣秀吉公が大切にしていたという伝説があります。また、幕末の戦争や太平洋戦争といった難を免れた像だとか。
パワースポットの一つとしてこちらも是非おまいりくださいませ!

さて、寛永寺とこの弁天堂を造った天海僧正という人物ですが、ご存知の方も多いかと思います。大河ドラマ「どうする家康」でも最終回にて小栗旬さんが演じていましたね。
108歳で亡くなるなど、その長寿ともあわせてたくさんの興味深い話が残されています。

天海僧正と上野

天海僧正は徳川家康公と73歳の時に出会っています。
その教養や人柄により家康公から深い尊敬を受けました。

天海僧正は家康公に言いました。
「公のご生涯は全く長寿・富財・人望・正直・愛敬・威光・大量の七福を備え給うにより、困難な天下統一の大業を完成され、平和な国土を築かれたが、これは神様で申し上げると丁度寿老人の長寿、大黒天の富財、福禄寿の人望、恵比寿の正直、弁才天の愛敬、毘沙門天の威光、布袋の大量の御徳を表したものと云うべきである」
家康公は大層お悦びになって、早速狩野法眼探幽を召されて七福神の絵を画かれて尊崇されました。探幽の画いた七福神はたちまち評判になり全国に模写して宣伝され、めでたい宝船に乗った縁起の良い七福神は世人の最も喜ぶところとなって、絵画は勿論彫刻や陶器にいたるまで作られ普及されるようになりました。(谷中七福神にていただける説明書「七福神のお話」より)


また、天海僧正は上野の山を京都の比叡山延暦寺にならい、「見立て」という思想によって設計しました。
●「寛永」年間に造られたお寺を「寛永寺」としました。(「延暦」年間に創建されたために「延暦寺」としたお寺が京都にあります。)
●不忍池を琵琶湖に見立てました
●もともとあった聖天せいてん(歓喜天)が祀られた島を竹生島ちくぶしまに見立てました(「竹生島」とは滋賀県の琵琶湖に浮かぶ島であり、そこには「竹生島宝厳寺ちくぶじまほうごんじ」というお寺と「都久夫須麻子神社つくぶすまじんじゃ」という神社が一緒に鎮座しています。)
●竹生島にある「宝厳寺ほうごんじ」に見立てたお堂を造りました

また、さらに興味深いのは方位学的な吉相を高めるための配置です。
東叡山寛永寺をこの上野山に配置したのは、江戸城から見て鬼門の丑寅、北東の方角だったから。これは、比叡山が京の鬼門である北東の位置に置かれているということと同じ考え方でした。(山号は東の比叡山という意味で東叡山としました)
その後神田神社(神田明神)を、現在の湯島の地に移し、江戸城ー神田神社ー寛永寺が北東のラインの線上に並ぶよう配置し、徳川幕府の安泰と人々の平和を祈願しました

歴史の話ではこのような方位の吉相のための戦略をよく耳にします。
現在の地図上でその位置がかなり正確であることが確認できると、今ほど情報がなかった時代によくぞここまでといつも驚かされます。

徳川家とのつながりと葵の御紋

この上野という場所は徳川家とのつながりが深くとても興味深いものがたくさん残されています。建物やその付随するものいたるところに徳川家の証である葵の御紋がついていることを確認することができます。

現在の上野公園の地を天海に与えられた天海僧正は寛永寺を創建し、江戸の天台宗の拠点となる大寺院にしたいと考えていました。
上野公園の噴水広場あたりに壮大な根本中堂が建立され、さらに清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などが競うように造られていきました。あわせて本寺に付属する小寺院なども建てられたのです。

やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営されました。
それらの建物は現在も鶯谷と上野の中間あたりにみることができ、上野の森からは少し離れています。その門にも葵の御紋が堂々とつけられています。

上野の森はパワースポットの宝庫

この建物は清水観音堂といいます。
見てください、この木!すごいですね!

浮世絵にも描かれていますね!(初代歌川広重画)

この清水観音堂も天海僧正により1631年に創建されました。京都の清水寺を見立てた舞台造りの御堂で、国の重要文化財となっています。


合格祈願のパワースポット「大仏パゴダ」

最初は高さ4・8㍍の大仏が造られましたが1647年の地震で破壊し、55年以降に高さ6・6㍍の青銅製の大仏が造られました。その後大仏殿が造られましたが1841年その大仏殿から火災が発生し、大仏の頭部が溶け落ちてしまいます。その後も修復するもまたもや1855年の大地震で再び頭部が落ち、再建。最後の災難は関東大震災でした。解体された頭と胴体は寛永寺に保管されていましたが第二次世界大戦中、金属類回収令がでて大仏の体の部分も供出されました。顔だけは寛永寺に大事に保管され、関東大震災から50年のときにもともとの大仏があった付近に祀られました。
その後「これ以上落ちない」として受験者の間で広まり、合格祈願を祈る参拝者が増加。合格大仏として今では人気のパワースポットとなっています。

また、パゴダ(pagoda) とは、仏塔を意味する英語です。
昭和42年にこの地にパゴダ様式(ミャンマー様式)の仏塔が建立されました。そして昭和47年、寛永寺に安置されていた大仏の顔面部をここに安置したのです。

この仏塔の内部には薬師如来、月光菩薩、日光菩薩を安置してあります。
この薬師三尊像は、江戸時代末まで上野東照宮境内にあつた薬師堂の本尊でしたが、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移され、その後パゴダの本尊となりました。

②護国院(大黒天)

護国院は天台宗寛永寺の子院です。
天海僧正の命で、その弟子により寛永元年(1624)に創建されました。
その後、寛永7年(1630年)天海僧正により境内に一堂が建立されます。

靴を脱いで室内へ

この護国院、最初は現在の東京国立博物館の右手奥にありましたが、幾たびかの移転を経て本堂を現在の位置に移しています。

御朱印をいただきます

御朱印をいただくところには判をおしてくださるかた、記帳してくださる方が待機されていて、この光景がまた大好きなんです。子供たちとこういう場面を体験できたこともうれしく思っています。

大黒天のご利益は?

大黒様の像もしっかりと見ていただき、お参りすることができます。
大黒天のご利益は本当にもうたくさんあって、最強の神様ですが、
中でもよくいわれるのは
金運、出世運、商売繁盛、五穀豊穣、縁結びなどです。
大黒様は打ち出の小槌をもっていますが、なんでも願いをかなえてくれそうですよね!

③長安寺(寿老人)

寛文9年(1669年)開創。臨済宗の寺院です。

ここでも靴をぬいでお参りします


これは木魚でしょうか。立派でおもしろいデザインです

長安寺の寿老人像は、徳川家康公が納めたものといわれています。等身大の寄木彫刻で、左脇に鹿を従えた座像です。
長寿の神様として祀られています。

また、このお寺の墓地内には狩野芳崖とその妻ヨシのお墓もあります。狩野派といえばこれまた徳川家との関係を思い出さずにはいられません。
ここで少し狩野派の歴史を紐解きたいと思います。

狩野派とは?狩野芳崖の人物像

狩野派は、室町〜江戸時代までの約400年にわたり幕府の御用絵師として襖や障壁画などを制作した絵師集団です。

狩野正信にはじまり、狩野元信・狩野永徳・狩野山楽・狩野山雪・狩野探幽・狩野芳崖と続きます。はじめは血縁関係を基礎としていましたが、そのうち優秀な者を弟子とし継がせていきました。
狩野芳崖も血縁関係にはありません。

このnoteの最初の方でも、家康が狩野探幽に七福神の画を描かせたことを記載していますが、狩野永徳やその孫である探幽などは信長、秀吉、家康など天下人の寵愛を一身に受け、お城の障壁画の大作を数多く手がけました。現在その多くが焼失していることは残念ですが、徳川家康によって江戸時代に造営された二条城の二の丸御殿の内部に数多くの障壁画を見ることができます。

狩野派のスタイルを確立するための「粉本ふんぽん」という制作のお手本があり、多くの弟子を育てました。しかし、狩野芳崖はそういった先人の模倣のみとした絵にあきたらず、新しい手法にも挑戦したため、波紋寸前にまで追い込まれたこともあったのだそうです。また世間からも認められず、貧困との闘いでもありました。
明治17年(1884年)東京大学教授としてたまたま来日していたフェノロサに認められ、その後橋本雅芳、岡倉天心、フェノロサと共に現在の芸大の開校に奔走します。しかし開校を待たずして明治21年61歳で死去。絶筆として重要文化財に指定されている「悲母観音」があります。(長安寺にていただけるパンフレットより)本堂前には大正6年建立の「狩野芳崖翁碑」が立っています。

板碑や、龍が彫られた鏝細工

板碑造立は、死者の冥福を祈る追善のもの、自分の死後の安楽を願う逆修のもの、或は仏を讃えるものなど色々ある。殊にこの時代は、猛古襲来をはじめ戦さにあけくれした時代で、出征した父、夫、息子たちの武運長久を祈るものや、戦歿した人々の追善のものが多い。
また、鏝細工は本堂中央の上部壁面に鳳凰、奥両袖壁面に昇龍、降龍があります。(長安寺にていただけるパンフレットより)少し暗い所にあります。探してみてくださいね!


④天王寺(毘沙門天)

JR日暮里駅にほど近い場所に位置した寺院です。
もとは日蓮宗のお寺でしたが、天台宗に改宗。
七福神は毘沙門天が祀られています。
山門をくぐると目の前には美しい和の静寂と建築が現れ、いつきても心が穏やかになり気持ちの良い空間を感じます。

このお寺が東叡山寛永寺の北方に位置することから、比叡山延暦寺の北方の鞍馬寺(民間の毘沙門天信仰発祥地とされる)が毘沙門天を奉安するのにならって毘沙門天立像を本尊としました。(ここでもまた「見立て」がされているのですね)
明治になって本尊は現在の阿弥陀如来坐像にかわりましたが、毘沙門天は今も篤い信仰を集めています。

かわいらしい冬囲い

この寺院の近くには「谷中の五重塔跡」という場所があります。戊辰戦争の際にも焼失を免れましたが、放火によって炎上。しかし下層部が残り、その部分の残材で昭和36年に毘沙門堂を再建しました。

戊辰罹災の時、毘沙門天の妻と言われている吉祥天きっしょうてんと、その子供、善膩師童子ぜんにじどうじの2像(江戸時代の作)とともに四谷安禅寺に避難して無事であった毘沙門天を安置しました。
お参りの際、少しだけ開いている扉の中をよーくのぞくと、3人の像が見えます。是非ともご確認ください。また、真ん中の毘沙門天の足元が見えなくて、残念におもっていたところ、御朱印をいただく場所に毘沙門天の像の写真が飾られていました!

邪鬼をしっかりふんでいます!

しかもしかも!この三体の祀られている建物の屋根には鬼が!

おもしろい!こんな建築はじめてみました!ここも是非チェックしてみてくださいね!

毘沙門天のご利益は?

毘沙門天はもとはインドの神様でした。その後仏教に取り入れられ中国を経て日本に伝わってきます。
仏教の世界では仏教を守護し、強いとされる四天王という神様がいます。その中でも、毘沙門天は「お釈迦様のお言葉を多く聞き、言葉を聞き逃さない」という意味の多聞天でもあり、多聞天は四天王のなかでも一番強いとされていることからも(また、聖徳太子の毘沙門天信仰の影響もあり)戦いに強い神様というイメージが定着していきます。
そこから毘沙門天を信仰をした戦国武将も多く、毘沙門天を祀る寺院に戦勝祈願をしました。

しかし、毘沙門天のご利益はそれだけではありません。
財福・開運・商売繁盛の神様としても崇められています。
また、妻や子と共に祀られていることも多いことから夫婦円満、家庭円満などのご利益もあるといわれています。

また、毘沙門天のもつ宝塔や武器、踏みつけている邪鬼など、そのお姿にも注目していただきたく思います。特に足の下にある邪鬼は鬼でありながら、人間の煩悩を表しているといい、また人間の病気なども含まれると知ると、ありがたさが増してまいります。

牧野富太郎のお墓

「日本の植物学の父」といわれれる牧野富太郎の墓があります。そのほかにも初代・三遊亭圓遊(落語家)、朝倉文夫(彫塑家)など著名人の墓も多数あるお寺です。

⑤修性院(布袋尊)

修性院は、日蓮宗寺院であり、天正元年(1573)現在の練馬区南田中である豊島郡田中村に創建し、寛文3年(1663)当地に移転しました。

以前はこの布袋尊の前までお参りに行けたのですか、
コロナ禍から入室できなくなりました。

笑う門には福来る

布袋尊のご利益とは何でしょうか。それはずばり「笑う門には福来る」なのです。恰幅の良い体形といつもとにかくニコニコの笑顔の布袋尊。大きな袋を持っていることも特徴です。
この修性院の布袋尊も口をあけて笑っています。
どっしりとした大きな像です。

その他にも布袋尊のご利益には、財運や夫婦円満、子宝、無病息災、商売繁盛、開運、良縁など、さまざまなものがあるといわれています。

笑顔をふりまき、人にやさしく親切にふるまうことで福を呼ぶということなのですね!

⑥青雲寺(恵比寿神)

臨済宗妙心寺派の寺院です。ここでは恵比寿神が祀られています。
かなりの福耳でいらっしゃいます。

布袋尊の祀られていた修性院からすぐの場所にあります。

恵比寿神のご利益とは?

商売繁盛、金運向上、豊漁祈願、航海安全、五穀豊穣などがあります。七福神の中で唯一日本の神様です。恵比寿神もいつもニコニコしている印象ですよね。やはり笑顔は福をよぶのです!

⑦東覚寺(福禄寿)

青雲寺からこの東覚寺まで少し距離があります。ここまでもだいぶ歩いているためちょっとしんどいですが、頑張ってください!

さあゴールのお寺になりました。おつかれさまです!
こちらも見どころがたくさんあるので休みながらも楽しんでくださいね。

東覚寺は、真言宗豊山派のお寺で、JR田端駅の近くにあります。
山門の石造金剛力士立像は、病を患った部分に赤い紙を貼るという赤紙仁王として有名で、この七福神めぐりの時はいつみてもたくさんの赤紙が貼られています。仁王(金剛力士像)は左右一対あります。

赤紙を貼るときには、最初に右の「阿」の像、次に左の「吽」の像と、両方の仁王の同じ場所に貼ります


仁王(金剛力士像)の横に草鞋(わらじ)があるのは、めでたく病気が治った際には草鞋を奉納する風習があるからなのだとか。
どこかお体で心配がありましたら是非赤紙を貼って御祈願ください

さて、このお寺にてお参りし、記帳していただいたあと、本堂の裏手にあるお庭によらせていただくのが毎年楽しみなのです。

小高い丘の上から写した写真


ここには七福神の小さい像がいたるところに安置されていたり、鳥居があったり、まるで心理療法の箱庭の中に入り込んだような気持ちになります。

弁才天
寿老人
布袋尊
福禄寿
毘沙門天
恵比寿神

大黒天だけ見つけられませんでした。
きっとどこかにいらしたと思います!!

池の鯉もこんなに立派で美しく!

このお寺に祀られている七福神は福禄寿です。
寿老人のような老人のお姿の神様です。

福禄寿のご利益は?

その名のとおり3つのご利益があるとされています。

福:幸福(特に子孫に恵まれることを意味)
禄:身分・財宝(金銭に恵まれる)
寿:長寿

福禄寿は寿老人と間違われることも多いようなのですが、寿老人が鹿をつれていたように、福禄寿は鶴をそばに置いていることが多いのだそうです。


七福神めぐりにいってみよう!

さて、皆様のご地域の近くにも七福神めぐりはあるでしょうか。是非調べてみてください。そして2024年がさらにさらに良い年になりますようお参りに出かけてみませんか?

お勧めのコースがあったらおしえてくださいね!

2024年が更なる飛躍の年となりますよう、
皆様のご多幸をお祈り申し上げます。







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