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入院日記9日目両親の墓じまい

朝起きようとした時
口の麻痺が少し軽くなったように感じた。嬉しい!
じゃあ目は?ふらつきは?
期待しながら順番にゆっくり慎重に
たしかめながら体を起こした。
ああ、ふらつきはまだ同じか…
視界もかわらないようだ。気持ち悪さと吐き気がどっと押し寄せる。
1回目の薬の効果はまだあまり感じない。

本当は今月の13日に両親の墓じまいを予定していた。
父はもう33年前に亡くなり、亡くなった時の病院と提携していた文京区の浄土真宗のお寺に運ばれお世話になることになった。母は自分が死んだら一緒にして永代供養にして欲しいからとお願いし、父を土に入れずマンションの一室のような場所に管理費を払ってお願いしていた。
母は自分の子どもたちは娘2人だしそれぞれ長男に嫁いだということもありお墓を残さない方がよいだろうと考えてくれたのだが、時代は今まさにそんな風潮となって、「墓じまい」などという言葉もよく聞くようになった。

しかしそのお寺はお墓をたてる値段より永代供養の方が高くなる。なぜなら永代供養は人数分だったのだ。
いや、詳しくいうと永代供養にもランクがあったので、また、実は母は生前苦労させられたことに関する父への恨みをずっと持ち続けていたため自分とランクを違えて欲しいと言っていたくらいで、もう少しお安くはできたのだが、私にはそれはどうしても出来なかった。

また、そのお寺は土地がそんなに広くない。お寺の外見は大きな戸建てのようで近代的だった。
永代供養のお骨はここに埋葬しますと説明してくれた場所は足の下だった。

ご住職様はとても優しく良い方で全く商売商売されたところもなく、母と生前良いお寺でよかったねと話していた。母が亡くなった時はしっかりとお経をあげていただいたあと、姉ともよくよく相談した上での私の正直な気持ちや自分の考え方などを話してみた。
大変お世話になったのだが都立霊園を考えてみたいと。ご住職は全く反対などされず、快く父の遺骨を渡してくださり当選するといいですね。と言って下さった。

埼玉に住んでいる姉も駒込にある染井吉野霊園なら通いやすいと考え、25枠のかなりの倍率ではあったが挑戦する。
しかし、やはり落選。

姉は県立霊園はどうだろうと言う。ここも通いやすい場所にあり都立霊園よりは当選しやすいよ、きっと。
そこもいいね。
母が慕っていた大宮の叔母さん(90すぎて今もお元気)の家も近めだしねなんて話して、抽選に申し込んだら当選したのである。よかったよかったと言って、そこへお骨を持っていくのが7月13日だったのだ。

長い前置きで申し訳ないが、ここからが私の妄想による展開となっていく。

この場におよんでこの日に埋葬することが、
私の思いがけない入院により阻止されたことに、ふと両親の気持ちを考えてしまうようになった。
両親はこの埋葬を拒んでいるのではないだろうか。
そんなことが気になりだしてしまったのは、
父の生き方にあり、母の死に方にあった。

父は佐賀県の出身で昭和5年生まれ。佐賀県の中でもかなり山奥のほとんど隣近所もなく私が幼かったころ訪れた時には小さな雑貨店がひとつだけあるようなところで、あとは本当になにもなかった。バス停には1日1本の予定しか書かれていなかった。

父の家は少し丘を登ったようなところにあった。つややかで黒ぐろとひかる大きな木の板が敷き詰められた広い玄関に立ち「こんにちわあ!」と大きな声をだすとワクワクするのだった。東京とは全く違う古い日本家屋のその家が私は大好きだった。

父はその地でいろいろな職を転々としたらしいことは生前本人から聞いていた。高校時代はかなりの不良でタバコを吸い、長距離の選手だったがタバコのせいで走れなくなったなんて話を自虐的に語っていたが、父はとてもユーモアがあり人好きのするタイプの人で子どもながらにもみんな父を好きになるなあなんて思っていた。
母もそんな父の魅力にとりつかれてしまったのだろう。
父は佐賀で職についたひとつである看板屋の経験をいかして東京の広告業の世界に飛び込むのだが器用だったのだろうかメキメキと出世しチーフとなっていた頃母と出会うのだった。母は年齢も当時としてはいっていて焦りもあったろう。周りの人からはかなり反対されたようであったが結婚。父は独立もし母と代々木の4畳一間の部屋に小さなコピー機だけを据え付け2人で会社を始めた。苦労も多かったが父の人間関係から仕事は次々ともらえ、順調だった。姉もうまれる。しかし同時に、その反対されていたことが次々と明るみに出る。まずお金づかいが荒く、ギャンブル好きであった。いまでいうギャンブル依存症だったのである。

とにかくこのお金のことはまさに病気だった。
仕事は順調だったしお給料はなんの問題もなかった。むしろ裕福だったくらいだ。なのに父はギャンブルがやりたいがために金の亡者となる。
高価なものを次々質屋に入れてしまうのを母がそれを取り戻しに行く。銀座の飲み屋からの高額な請求書。サラ金からの電話。母はもう笑うことがなくなっていく。

母が一番恐れていたのは父が従業員のお給料を使い込んでしまうことだった。当時は振り込みでなくてクライアントに直接とりにいくのだったらしく、父は今日は支払い日だし行ってくるよとサラリと出かけ、もう戻ってこないのだ。それから何日もかえらなくなることもザラでその間の家の中のはりつめた空気というのは本当に恐ろしかった。
パパがまた蒸発した。
帰れば凄まじい夫婦喧嘩が待っている。
毎日毎日そのことだけを気に病んでなにも出来なかった。

母の財布が私の布団の下にかくされていたこともある。会社の金庫がめちゃくちゃにたたかれ破壊されていたこともある。  
父はもう犯罪者だった。

もう離婚していいよと私たちは母に言った。
母はあんたたちのために離婚はしないといいつつも幼い頃は離婚したらどっちに行く?と聞かれることもあり子ども心に悩んだ。しかしとにかく余裕のない母は子どもに全く心を向けられず、私はよく問題を起こした。
そんな中姉が私に優しくしてくれていろいろ面倒もみてくれたのは今も本当に感謝している。

父は62歳で死んだ。食道癌だった。
あんな父だったが私は大好きであった。
ギャンブルさえなければ
父は優しくてユーモアもあっていろんなところに連れて行ってくれたしおもしろいこともたくさん知っていた。
とにかくかわいがってもくれた。

だけど、父が死んで、家族中でホッとした。
やっと終わったんだと思った。

それから母は27年一人暮らしで、2年施設に入り亡くなる。あんたたちを可愛がってあげれなかったと最期は何度も詫びていた。私も当時はいろいろつらく母を恨んだりしていたが結婚し子どもを育てるなか、自分の子ども時代を取り戻すかのように我が子たちに助けられ「考え」を持つようになり救われていくと、母の気持ちをもっと考えてあげればよかったという後悔が強くなっていった。

しかし母も私も普通の親子の関係というのがよくわからなくなっていて、母の晩年私のできる限りの方法で寄り添い努力してみたが、最期までその関係性が修復出来なかったように思う。
母は私に感謝してくれながらも、大きな大きな悲しみをぶつけて死んだ。そのことが今でも頭から離れない。

それでこの埋葬の時期に入院。
何か意味があるとしか思えなかった。
それはなんだろうと思う。

父はあんな山奥から東京にでてきて小さいながらも一つの会社をつくり自分の城を作ったのだ。
故郷にいくとそんなふうに皆口々に言い父をもてはやしてくれていた。父は自慢であったろう。
なのに骨は東京ではないところなのかとガッカリしているのかもしれないと考えた。
また、母は生前よく私たちに「死んだらお参りに来て欲しい」と寂しそうに言っていた。残された帳面にも書いてあった。そして絶対父とは離してくれと。
このことは文京区のご住職様にも話してみた。

浄土真宗ではあの世では皆さんご一緒になられるとしている。この世での恨みつらみはどうか忘れていただけたら…というようなお話も伺った。
そうだよね、きっと一緒になるよねと思い今回のようにも決めたが、母の願いを聞いてあげていないのは心にひっかかっていた。

とにかく13日はいけなそうと姉に入院初日にLINEで詫びるときっと延期してもらえるからこっちは全然大丈夫だよと言い、私の病状に驚き、気遣ってくれた。
その2日後に思い切って考えたことを告げる。

私は昔からよくこういうとりとめのない自分の思い込みのような話をしては意味があるんじゃないかと言い出し、姉だけでなく夫などもよく困らせた。だから今回のこんな話も姉はうんざりするかもしれないなと思っていた。もうさんざん相談して県立霊園に決めたのに今さらそんな話?と言われてもしかたないと思っていたが、姉はそういうことをひきづったまま埋葬を決行するのはよくないね。きっとこっちは結構待ってくれそうだからまた都立霊園を挑戦してみようかと言ってくれた。
驚いた。嬉しかった。
でもさ、ほんと考え方だよね。と姉が付け加えた。
もっと命に関わるような病気になる前に我慢しないで病院行ってきなさいってママたちが教えてくれたのかもしれないよ。

実は都立霊園の今年の申し込みはつい先日終わった。入院してから調べたので気づいたのは7月2日で締切は7月5日だった。説明書をいろいろ読みながら正式な書類を作ることに自信がなく諦めてしまった。

文京区にはお寺がたくさんあり、都立霊園にこだわらなくてもどこかあるかもしれない。
退院したら調べてみたいと思った。
両親の最後の思いをできるだけ実現したい。
もうそれしか私にできることはないのだから。

考えすぎだろうか

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