わたしとロシア
ロシアに興味をもったことはありませんでした。
ロシアとの接点をなにか感じたこともなかったかと思います。
娘が高校生の時に
ロシアの言葉に興味をもちました。
「おかあさん、
キリル文字って知ってる?おもしろいんだよ!」
私はその存在を初めて知りました。
記号のような文字に驚きましたが、
それを学びたいと
大学に進学した娘にはもっと驚きました。
「なぜロシア語?」
ああそういえば、
私の父の一つ上のお兄さんがロシア語の通訳をしていたことを思い出しました。そのことを知った時も子ども心に「なぜロシア語?」と不思議に思ったことを覚えています。
みつおおじさんは昭和一桁生まれでしたから、戦時中のシベリア抑留なども何か関係していたかもしれません。
でも、おじさんはもういない。
みつおおじさんは父のお兄さんだったけど父には全く似ていませんでした。
見た目だけでなく雰囲気も。
どことなくピリッとしていてインテリでした。
父のことを嫌い、あいつとは縁を切ると言っていたおじさん。父はとても人に好かれましたが、父を良く知っている親族は皆父を嫌いました。
父のお金への異常な執着にさんざん悩まされてきたからなのです。父の、その病気ともいえる素行の悪さを恐れ、関わり合いたくないということをあからさまに言う親族は当時たくさんいました。
父が大好きだった私は、みつおおじさんに親しみを感じることがありませんでした。
でもおじさんのロシア語の通訳というお仕事のことは当時から興味深く思っていました。
今更ながらお話をうかがってみればよかったと後悔しています。
残念でなりません。
ロシアは今ウクライナとのことで世界から注目をあびています。ウクライナに武器の援助をすることでますます事態を長引かせ悲しみを広げている現状はもはや二つの国の問題だけにはおさまらずそれこそ「戦争」という実態の複雑さを考えさせられます。
なぜこの戦争は終わらないんだろう。
娘はもともとロシアが好きという訳ではありませんでした。それこそなにも接点はなく、ドストエフスキーも知らなかったくらいです。
しかしロシアとウクライナの戦争がはじまり、ロシアがどんどん悪者になっていく報道に疑問をいだくようになります。
世界はどうなっているんだろう?
娘はいよいよ興味を広げ
もっと世界が知りたいと日本をとびたつ決意をかためました。
私は、娘の出発前に家族でロシア料理を食べてみたいと思いました。
娘は本当はロシアに行きたいのですが、留学先として大学から禁止されているため行くことができません。また、いろいろ興味がふくらみまさに世界をみたいという希望があり行きたい国をたくさんまわります。ロシア語圏内も数多くまわるため、向こうに行けば娘は食べるかもしれない料理ではありますが家族も共有したいと思いました。
ここでまた私は
ふと自分の昔の「ロシア」を思い出したのです。
デザイン学校を卒業する年でしたのでもう32年前のことになります。私は23歳でした。
同級生のTさんは、大手の会社に就職が決まりとても喜んでいました。Tさんは同級生とは言っても他の専門学校から来た人で年上でした。そこでの学びは自分の求めていたものとは違ったと感じ学校を変えたのだと切羽詰まったような表情で先生と話していたのをたまたまみかけたことがありそんな内情のある人なのかと思っていました。真面目で静かな男性で、笑ったところをみたことがない印象でした。
そのTさんが笑いながら
卒業前にみんなで食事にいかないかと
いろいろな人に声をかけていました。
私はさほど仲良くしていた訳でもなかったのに
誘ってもらい「よっぽど嬉しかったんだろうなあ」なんて思ったことを覚えています。
そしてTさんが誘ってくれたのはロシア料理のレストランだったのです。
「とってもおいしいんだよ」
ロシア料理?初めて食べるなあとびっくりしました。Tさんはロシア料理が好きなのか!ということにも驚きました。新宿にあるお店だといいます。スンガリーというお店でした。
店内は少しうすぐらくて趣があり、入ったとたん外国のような雰囲気を感じました。
どんな料理を食べたか
どんな話をしたか全く覚えていません。
ただとても美味しくて楽しかったことだけが記憶に残りました。
あのお店に家族で行ってみたいと思いました。
家族に話すといいねいいねと盛り上がり早速予約をしました。
アラカルトはうまく注文できる自信がなくコース料理にしたと言うと娘が「コースなんて初めて!」と喜びました。そうだったかあと思いました。
我が家はコース料理どころか外食すらほとんどすることがありませんでしたが、自分が子どもの頃はいろいろ外食を楽しませてもらってきたのでその記憶とごっちゃになっていたようです。
その日、それぞれ違う場所にいた家族は18時に店の前で待ち合わせをして一緒に入店しました。
長男だけはたまたまイタリア旅行中で不在。
一緒に体験したかったな。残念でした。
給仕の方がすべてロシアの方のようでした。いや、ウクライナの方もいたのかも。その違いはわかりませんでした。私は何度もお顔をジッとみてしまいました。同じ人間なのにこんなふうに国によって違うお顔。日本はもちろんのこと、アメリカやイギリスの方とはまた違う雰囲気を不思議に思いました。
飲み物を選ぶ時、メニューの中にバラライカという文字をみつけました。
あ。と思いました。幼い頃家族で行ったことのあるレストランの名前だったのです。変わった名前だったので記憶に残っていました。
バラライカという言葉もロシアに関係するものだったのか。と驚きました。
バラライカってなんだろう?
調べてみましたらロシアの楽器のことで、弦楽器の一つだとわかりました。
そうだったんだ。
こんなところにも私にはロシアがあったんだ。
そして、23歳の時にTさんたちと食べたロシア料理は、私のはじめてのロシア料理ではなかったのかと
55歳にして気付かされました。
いろいろなことからどんどんロシアを身近に感じることが増えていきます。
私はこれからもきっと
ロシアを考え続けてゆくでしょう。
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